お宝温泉物語by地域ジオ資源研究会(第9話)

竜王ラドン温泉「湯ーとぴあ」

お宝温泉に浸かりながら、国内最大級のラドンを吸入できる温泉

「短期間で万病に効く驚異の秘泉」の効果を自ら検証してみよう!

昭和54年(1979年)開湯の宿泊旅館を併設した温泉施設

ロビーに並ぶ6基の医療用ラドン発生装置(国内最大級)

はじめに

 竜王ラドン温泉は、昭和54年(1979年)に開湯した山梨県甲斐市に位置する温泉施設である。地下1000mから豊かに湧き出る「源泉かけ流しの浴槽」に加え、お宝温泉に浸かりながら「国内最大級のラドンを吸入できる浴槽」の2つを備えた、「浸かってよし、吸ってよし」の贅沢な温泉である。 

1.源泉自体が驚きの湯量をもつお宝温泉

絶妙の湧出温度(39.4℃)と豊富な湯量

 竜王ラドン温泉は、「やまなし百名湯」に選ばれた源泉かけ流し100%の名湯である。

 掘削自噴の湧出温度39.4℃の源泉は、地下1000mから520リットル/分の豊富さで湧き続けている。これを男女各2の4つの浴槽にそれぞれ130リットル/分の贅沢さで分配し、各湯船のお湯が約10分で入れ替わっている。

泉質

 泉質は、pH8.1、成分総計1906mg/kg、遊離二酸化炭素約520㎎と微量の硫黄成分を含む、炭酸水素塩泉とも塩化物泉とも呼べる名湯である。やや黄色味を帯びた透明なお湯は、豊富な重曹成分による美肌効果で、肌をすべすべにする「美人の湯」として知られている。

源泉かけ流しの浴槽は、130リットル/分の贅沢感で打たせ湯や長湯を楽しめる

2.45年前、時代に先駆けてラドン温泉を導入

 ロビーに入るとすぐ目につく左側に並んでいる大きな機械の前で、代表取締役社長の早川善輝氏からお話を伺った。早川社長は、約45年間にわたってラドン温泉の効能を大学や研究機関と連携して検証してきており、湯治の方法や効果について熟知するプロフェッショナルである。

 本物のラドン温泉の技術は、1972年(昭和47年)に確立した。いま67歳の早川社長が22歳の大学生であった1979年(昭和54年)から、父親がもっていたこの地に健康ランドをつくる一環で、ラドン温泉の勉強を始めた。

 以下、早川社長のお話しを紹介する。併せて、【コラム】として、ラドン温泉の歴史などに関する予備知識をまとめてみた。

Mybestpro Interview:100%かけ流しの「ラドン温泉」で湯治を指南

湯治のプロ 早川善輝 https://mbp-japan.com/yamanashi/u-topia/interview/ より

【コラム】ラドン開発事業団:『ラドン温泉』の歴史(https://radononsen.co.jp/875)より

 ラドンの特性にいち早く注目したのはロシアで、1926年(昭和元年)から実践的な研究を精力的に進めた。オーストリアでも、1946年(昭和21年)からガスタインの坑道でトンネル療法を実施し、これが現在のラドン温泉・ラドン吸入室の基礎となった。

 日本では、1931年(昭和6年)から、九州大学の温泉治療学研究所や岡山大学の三朝医療センターで研究が始まり、1960年(昭和35年)には、兵庫県淡路島の今津三郎医学博士が「ラドン発生装置」を完成させた。

 1972年(昭和47年)には、「ラドン開発事業団」が発足し(会長は当時厚相、前首相の鈴木善幸氏)、日本に初めて大規模なラドン温泉センター(大船ラドン温泉)が誕生した。1977年(昭和52年)には、ラドン温泉利用者は年間200万人を超えた。

 こうして昭和50年代後半、医療施設、ホテル・旅館、ヘルスセンターから銭湯までラドン温泉が導入され、最盛期を迎えた。1983年(昭和58年)のラドン温泉入場者が、ラドン開発事業団系列の施設のみで年間1000万人を超え、他のラドン団体を含めると、全国で2000~3000万人の利用者がいたであろう。1972年(昭和47年)から10数年で、ラドン温泉入場者が爆発的に増えたのである。

 しかし、1991年(平成元年)の「ふるさと創生事業」により、各市町村が競って温泉を掘削し、多数の温泉施設が乱立して価格破壊が起こり、民間の零細企業から閉店へと向かった。(ラドン吸入の効果についての評価が定まる間もなく、爆発的なブームが起こり、一気に衰退した。そのなかで、竜王ラドン温泉は奇跡的に生き残ってきた。)

【コラム】ラドン温泉の「まがい物」

 ラドン温泉で注意すべきなのは、良質のウラン系(ラドン:Rn222)ではないトリウム系(トロン:Rn220)の温泉や岩盤浴の有害性があまり知られていないことである。

 この2つは同位元素であるが、ラドン半減期は3.8日なので、吸入しても3時間で99.8%がそのまま抜けるのに対し、トロンの半減期は55秒で、気体で吸入すると、すぐに鉛か猛毒のポロニウムに変化する。

 とくに、サウナのロウリュウで気化したトロンを吸入することは危険である。

 ラドン温泉のブーム時には、大量に輸入した安価なモナズ石(モナザイト)が出回った。このモナズ石がトリウムを含み、これによる健康被害が多く生じている。

(まさに無知は犯罪である。悪貨が良貨を駆逐する。)

ラドン開発事業団総本部で製作された1基2000万円の医療用ラドン発生装置

ラドン発生装置

 さて、早川社長のお話に戻る。この朱色に塗られた機械こそ、「ラドン発生装置」である。今から30~40年前までは多くの市町村の健康センターや温浴施設に備え付けられ、気軽に住民の健康向上とコミュニティの場として親しまれてきたラドン温浴施設。時代の流れの中で次第に閉館していき、今では日本全国でも数か所しか稼働していないそうだ。 (ここと、湯河原ラドンセンターくらいである。)

 本物のラドン温泉には、ラドン開発事業団総本部で製作された1基2000万円の医療用ラドン発生装置が必要で、ここには6基ある(湯河原は1基?)。ガンマー線が皆無であるなど、安全面についても優れているとのこと。

ラドンとは

 ラドンは、自然起源の無色無臭の放射性の気体で、「希ガス」の中で最も重い元素である。アルファ線α線)を出し、半減期は3.825日。

 ラドンは不活性な気体で、身体のどの部分とも化学反応を起こさない。肺から90%、皮膚から10%の割合で身体の中に入り、血流とともに全身に運ばれる。脂溶性があり、内分泌腺や神経線維など脂肪が多い組織に集まりやすい。

 半減期が3.8日なので、身体に入ってもすぐに出てしまう。身体に取り入れたラドンの半分は30分で消え、2時間でほとんどが排出する。しかし、この短い間に全身を回り、細胞に刺激を与えてくれるのである。

ラドンによる「イオン化作用」or「電離作用」

 ラドン温泉で吸入したラドンは、体内に浸透して血液の中に溶け込み、血流とともに全身に運ばれ、ラドンが放出するα線が体内の細胞や血液を活性化させる。これが放射線による「イオン化作用」で、「電離作用」とも呼ばれている。

 この「イオン化作用」or「電離作用」は、血液中の老廃物質の代謝を促進して血液を浄化する効果があり、全身の血流をもスムーズにし、身体を健康に導いて行く。

 血液を浄化する際に、組織内に停滞して凝りや痛みの原因となっている老廃物の代謝が促され、体温上昇と発汗作用で快い温感が持続する。 

浴室内ラドン濃度と吸入時間

 後述のとおり、岡山大学の「三朝医療センター」では、浴室内ラドン濃度2000~4000ベクレル/m3のラドンを1 日40分、隔日に 3~4 週間吸入することで医療効果をあげていた。

 ここは、浴室内ラドン濃度が780~1000ベクレル/m3なので、最低でも1回10分間の吸入を推奨しており、休憩をとりながら1日に3回の吸入が目安である。(それ以上でも全く問題なく、何時間も吸入しながら寝ているご婦人もおられる。) 

 入泉後、多少の個人差はあるが、3~5分で発汗が始まり、次第に〝強い発汗状態〟になる。自ら体調と相談しながら、心ゆくまで温泉療養を味わってもらいたい。(ただし、2回目の入泉からは、ある程度の疲労感を感じることがある。)

 

湯船の底の配管からラドンがブクブクと発生し続け、浴室全体にラドンが充満している

(お宝温泉に浸かりながら、効果が期待できる濃度のラドンを吸入できる)

3.「ラドン吸入療法」の国内外での評価は?

ラドン吸入療法は、オーストリアやドイツなどでは医療行為として 認められている

 ラドン吸入療法は、オーストリアやドイツなどでは医療行為として認められており、適切な治療計画に基づいて吸入量や期間等が決められている。

 特にオーストリアのバドガスタイン(Badgastein)では、元金鉱であった坑道内の高ラドン濃度(50000ベクレル/m3程度)を利用したラドン吸入療法が実施されており、世界的に有名である。

 そこでの適応症は、激しい痛みを伴う慢性リューマチ疾患、慢性筋肉・腱・変形性関節症、神経痛、慢性神経炎、慢性強直性脊椎症、脊椎症、脊椎関節症、運動器のスポーツ障害、末梢循環障害、難治性創傷、歯周炎、内分泌腺障害、更年期障害、性器発育不全、脂肪沈着性発育不全、性的不能不妊症など、きわめて多岐に及んでいる。

岡山大学における「微量の放射線による健康増進・症状緩和効果」に関する研究

岡山大学:No.23 放射性元素ラドン」の健康増進・症状緩和効果https://www.okayama-u.ac.jp/tp/research/focus_on_23.html より)

 岡山大学大学院保健学研究科の片岡隆浩助教によると、放射線は「危険なもの」というイメージに反し、実は微量の放射線には健康増進・症状緩和効果があるとのこと。

 身体に放射線を浴びると、体内で活性酸素種が生まれてDNAや細胞膜などを損傷させるのに対し、身体は抗酸化作用やDNA損傷修復機能などにより、活性酸素種で受けたダメージを修復する機能を持っている。

 そこで、意図的に低線量の放射線を浴びることにより、生体防御機能の亢進を引き出して健康増進効果が得られるのではないかと考え、ラドン吸入療法による健康増進効果について研究している。

 注)このような効果は、一般に「ホルミシス効果」と呼ばれており、微量の放射線などの低レベルのストレス刺激が身体の自己防御力(抗酸化作用やDNA損傷修復機能など)を活性化させる現象のことである。

岡山大学「三朝医療センター」におけるラドン吸入療法

 中国山地の地盤に豊富に含まれる花こう岩には、元素ウランが多く含まれており、三朝町はラドン温泉が湧く世界的にも有数の地域となっている。実際、850年以上前から、三朝町のラドン温泉は「万病に効く不老長寿の湯」として知られてきた。

 岡山大学でも「三朝医療センター」を設置して、ラドン温泉を利用した治療の実施や研究をしていた。センターは2016年に閉院したが、現在でも片岡助教の研究チームは、日本原子力研究開発機構、三朝町と共同で研究を続けている。

 現時点では、神経性障害疼痛やアルコール性肝障害などさまざまな疾患において、通常の薬剤治療に加えてラドン吸入療法を上手に利用すれば、薬物の使用量を減らし、副作用の低減や医療費の抑制につながると考えている。

 「三朝医療センター」のラドン高濃度熱気浴室におけるラドン吸入療法では、浴室内ラドン濃度が約2000~4000ベクレル/m3、温度42℃,湿度90%の高温多湿である。治療方法は、 1 日40分、隔日に 3~4 週間、浴室で横臥するだけである。この高温多湿環境下における温熱効果が、ラドン療法の効果をより高める。

 温熱効果により、体内の新陳代謝による熱産生が末梢血管を拡張するため、皮膚・関節・腱・筋肉等の血行が促進され、ラドンのみならず酸素、栄養素等の患部への到達量が増えるのである。

ラドン吸入療法」の副作用

 適量のラドンを用いた場合の副作用は現状確認されておらず、健康へのリスクは極めて低いと考えている。

 実際に、三朝温泉地域住民に関する限り、ラドン吸入による肺がん等がん死亡率の増加が認められないことは事実であり、ごく通常のラドン吸入療養については健康障害を心配する必要はない。

ラドン吸入療法」の効果

 近年の片岡助教らの研究によって,ラドン吸入療法により、抗酸化機能や抗炎症作用の亢進に伴う鎮痛効果などがもたらされ、リューマチ性疾患、運動器障害、慢性皮膚病などに効果があることが明らかになりつつある。

 ラドン吸入療法には、① 血行促進(老廃物の代謝促進)、② 免疫力向上、③ 痛みの緩和(神経痛やリューマチなど)、④ 美容効果(デトックス効果、肌の調子を整える)、➄ リラックス効果(自律神経を整え、ストレスを軽減する)といった効果が期待されている。

研究会入湯レポート

(その1)五十肩が1時間の入泉で快癒した

 1年前から五十肩を患っていましたが、この温泉に1時間程度入ると、2日後には嘘のように腕があがるようになりました。今や、快癒に近い状態です。

(その2)スキーによるやっかいな腸腰筋のコリが取れた

 スキーの疲れが腰の深部(腸腰筋あたり)にたまり、いろいろ試してもなかなかコリが取れなかったのが、日帰りで1時間15分ほど、水風呂と交互に3回ほど浸かると、スッキリとコリが取れました。

 早川社長によると、身体の痛みも血行の滞りが原因なので、それを改善することで痛みも取れる。40肩や50肩は数回で治るそうで、スキーの腰痛など一発で治るのは納得です。

併設の水風呂と交互に楽しむと自律神経を整えるのに効果的である

4.再び、竜王ラドン温泉」について

副作用の心配なく、ラドン吸入の効果を自ら試して検証できる

 竜王ラドン温泉の浴室内ラドン濃度は、国内最大級とはいえ、780~1000ベクレル/m3であり、オーストリアのガスタイン(Badgastein)のラドン濃度(50000ベクレル/m3程度)の1/50以下、「三朝医療センター」の浴室内ラドン濃度(約2000~4000ベクレル/m3)の1/2~1/4以下である。

 したがって、副作用を心配することなく、「短期間で万病に効く驚異の秘泉」の効果を自ら検証できる。それが叶うのがこの施設の唯一無二の価値であり、実際に多くの利用者がその恩恵にあずかっている。

竜王ラドン温泉がうたっている適応症

 45年間の実績をもとに竜王ラドン温泉がうたっている適応症は、糖尿病、自律神経失調症、高血圧症、動脈硬化症、肝疾患、帯状疱疹後遺症、腰痛、むちうち症候群、神経痛、筋肉痛、関節痛、五十肩、運動麻痺、関節のこわばり、うちみ、くじき、甲状腺疾患、慢性消化器病、痔疾、冷え性、産後回復期、リウマチ性疾患、火傷、慢性皮膚疾患、便秘、慢性気管支炎、その他健康増進全般などである。

 (何と、その治癒率も、ラドン浴室内のパネルに%表示で示されており、100%、80%といった数字が並んでいる!?)

周辺の「お宝温泉」巡り、見どころ

 同じ甲斐市の「山口温泉」まで車で4分(徒歩19分)、甲府市の「草津温泉」は8分、山梨市の「はやぶさ温泉」まで35分と、この一帯に「お宝温泉」が集まっている。

 近くには、釜無川の信玄堤公園、山梨県立美術館、甲府城跡、武田神社、サドヤワイナリー、シャトー酒折ワイナリー、少し西の勝沼には、甲州市勝沼ぶどうの丘、蒼龍葡萄酒、北には、韮崎大村美術館など、見どころもたくさんある。

5.竜王ラドン温泉の地形・地質

 甲府盆地は西側を一之瀬断層群、南東側を曽根丘陵断層群による山地との明瞭な境界に加えて、北側は火山岩類の分布する山地に囲まれた三角形状を呈する。山地と盆地の境界には活断層があって、盆地には第四紀の堆積物が厚く分布している。

 盆地内に位置する温泉付近の基盤の地質は、付加体堆積物やラドン温泉の存在から花崗岩類が伏在すると推定され、温泉は北北西~南南東に延びる伏在断層沿いから湧出していると考えられる。 

温泉宿詳細情報

宿名

竜王ラドン温泉 湯〜とぴあ

住所

〒400-0113
山梨県甲斐市富竹新田1300-1

連絡先

055-276-9111

公式HP

https://u-u.co.jp/

 





 









お宝温泉物語by地域ジオ資源研究会(第8話)

田澤温泉:全体像と「有乳湯(うちゆ)」「富士屋」

飛鳥時代から1300年の歴史をもつ湯量豊富な「ぬる泡」の名湯

源泉の希少価値と青木村の魅力が相まって、きらりと光る温泉地

青木村の最上流の村落(中村区)の奥にひっそりと佇む温泉街

(この手前右と石畳みの奥右手の「有乳湯」の裏に収容力のある駐車場有り)

 

石畳の道や格子戸の宿、白壁の土蔵など、歴史の雰囲気が漂う

(石畳みの奥右手に共同浴場「有乳湯」があり、「富士屋」はこの手前左に位置する)

はじめに

 田澤温泉を物語るとき、温泉の歴史や温泉を守る側の人と仕組みに加え、「日本一住みやすい村」に輝いたことがある青木村の魅力についても、是非知っていただきたいと思う。

 お宝温泉の価値と青木村の魅力との相乗効果によって、鄙びた温泉地が「小粒でもきらりと光る」歴史・自然公園のような趣を呈している。

1.田澤温泉の歴史と「田澤財産共有組合」(源泉を守る仕組み)

「田澤温泉」のあらまし

 田澤温泉は、長野県のほぼ中央部、上田市から西方約12mにある青木村の最上流の村落の奥にひっそりと佇む温泉街である。十観山の豊かな自然に囲まれた山あいに位置し、石畳の道や格子戸の宿、白壁の土蔵など、歴史の雰囲気が漂う。

 温泉街には、旅館が5軒ほど存在する。島崎藤村の「千曲川のスケッチ」にも登場する「ますや」など、古き良き湯治場の歴史を感じさせる木造の旅館が並んでいる。

「田澤温泉の源泉」―もったいないくらいの湯量を誇る源泉

 国民保養温泉地である田澤温泉の源泉は、 子宝の湯とも、母乳の出が良くなるとも言われる約40℃のぬるい名湯で、長時間入浴する人が多い。

 源泉の湧出量は500リットル/分を誇り、共同浴場「有乳湯」で使っているほか、「富士屋」をはじめとする5軒ほどの旅館や村営の「くつろぎの湯」、特養施設などに分配され、地元住民のみならず遠くからもこの上質な湯を求めて訪れる客が絶えない。

 4本の源泉は、江戸時代からの大和湯と1号泉、昭和30年代からの2号泉(深さ200m)、村と共同で掘った3号泉(深さ700m)である。共同浴場「有乳湯」の湯は2号泉、シャワーは3号泉を利用している。

「田澤財産共有組合」

 (株)道の駅あおきの代表取締役社長で、令和4年度の田澤財産共有組合の組合長の若林崇弘氏によると、田澤財産共有組合は、青木村の最上流に位置する中村区(村営の「くつろぎの湯」より上流の区域)の120軒のうち、江戸時代から続く61軒の組合員から構成される。3つの松茸山を含む山林、源泉、水利権などの財産管理・運営が組合の仕事である。

 田澤温泉の源泉は、江戸時代から続くこの「田澤財産共有組合」によって、しっかりと守られている。

田澤温泉の開湯の歴史と役行者(えんのぎょうじゃ)

 田澤温泉の開湯は飛鳥時代後半といわれ、役小角(えのおづの)、通名役行者(えんのぎょうじゃ)によって発見されたといわれている。

 役行者は、飛鳥・奈良時代に活躍した修験道の開祖として知られ、山岳修行を通じて、自然の力を借りて病気を治したり、災害を予知したりする能力を持っていたとされる。

 温泉も彼の修行や治療の一環として利用されていたと考えられ、温泉の癒しの力は、役行者の霊力と相まって、多くの人々に恩恵をもたらしたことであろう。

2.青木村周辺の歴史的遺産と見所

奈良時代からの歴史的な道「東山道」と修験道の地「岩殿山

 青木村周辺には、奈良時代からの歴史的な道がある。特に有名な「東山道」は、奈良時代に中央と地方を結ぶために作られた国道で、都から奥州まで通じていた。この道は、松本から青木村を経て上田へと続いていたと伝えられている。

 青木村から車で国道143号を通って30分足らず、歩き(登山)で約2時間50分の「岩殿山」は、古くから天台宗修験道の地として崇められてきた。

山と渓谷オンライン:「信州・筑北の岩殿山。巨大な岩窟に圧倒される」

https://www.yamakei-online.com/yama-ya/detail.php?id=2175

(写真・文=田村茂樹氏)より 

「大法寺三重塔」

 大法寺は、飛鳥時代に開基されて以来1400年の歴史を誇り、鎌倉時代に建てられた国宝・大法寺三重塔があることで知られている。

 大法寺三重塔は、その美しい姿を旅人が振り返り眺めたことから、「見返りの塔」の名で親しまれている。地方にありながら奈良や京都の建築物に比肩する完成度を誇り、1953年に国宝に指定された。

 和様建築の様式が正確に守られ、周囲の自然と見事に調和しており、どの角度から見ても美しい景観を楽しむことができる。観音堂内には、日本最古とされる鯱(しゃちほこ)が飾られている。

飛鳥・奈良時代から1400年の歴史を誇り、仏教信仰が根付いている「大法寺」

「見返りの塔」の名で親しまれている「大法寺三重塔」

空を舞う鳥の羽のように屋根がのびのびと広がり、独特の安定感がある。

塔内部には大日如来座像が安置されており、壁画も見どころの一つである)

五島慶太未来創造館」

 当館は、青木村の先人で、東急電鉄グループの礎を築き鉄道王と呼ばれた五島慶太(1882~1959年)の功績を振り返るとともに、小さな山村から実業界に大きくはばたき、教育者としても次世代の育成に力を注いだ先人の想いを、これからの時代を生きる人々につなげていくための施設である。

 2020年4月に当館を開館した青木村東急グループは、「地域活性化起業人制度(企業人材派遣制度)」に関する基本協定書を結び、東急社員が村の総務企画課事業推進室に派遣され、村と東急グループの関係・交流人口の創出・拡大に資する業務や、慶太関連施設などの有効活用を進める業務に就くなど、連携を深めている。

五島慶太未来創造館」

青木村東急グループは、2020年4月に当館を開館し、連携を深めている)

過去の「軌跡」から「わたしの未来」への起点、と象徴的に表現されている。

「道の駅あおき」

 「道の駅あおき」は、地元の特産品や新鮮な野菜が手に入る場所で、観光の拠点としても人気である。特に、秋になるとマツタケを買い求める人で行列ができるそうだ。

 併設された食堂では、青木村の特産品であるオリジナル蕎麦品種「タチアカネ」の甘みのある独特の味わいが楽しめる。11月からの新そばが美味! 

青木村」のアウトドア

 青木村はアウトドアをするのにも、うってつけの環境である。令和6年4月にOPENした敷地面積6万平方メートル以上もある「リフレッシュパークあおき」では、渓流釣りやフィールドアスレチック、マレットゴルフなどを一日中楽しめる。

信州上小森林組合:「リフレッシュパークあおき」(管理受託)~自然と親しむ

ピクニックパーク~ http://jforest.jp/refreshparkaoki.html より

 青木村にはトレッキングできるような山も豊富にある。初心者向けの「十観山」を登るコースから、玄人向けの「滝山連峰」を縦走するコースもあり、自分のレベルにあわせてトレッキングに挑戦できる。

 さらに、「パラグライダーパーク青木」では、それらの山々を眺めながらパラグライダーを楽しむこともできる!

3.「日本一住みたい村」に輝いた青木村

青木村へ移住する魅力は?

 青木村は、総人口が 約3,900人 (2024年7月1日)の美しい農山村である。標高500〜850メートルの平地や段丘に住家や農地が分布し、自然豊かな環境が広がっている。

 村の面積の約8割が山林で、農地は約1割である。主要な産業は農業で、米、ソバ、マツタケ、山菜などが生産されている。車で30分以内の上田市への通勤率は47%(2015年国勢調査)で、同市のベッドタウンとなっている。

 青木村は、宝島社が出版している『田舎暮らしの本』(2016年2月号)で「日本一住みたい村」に輝いたことがあるほど、移住地として人気が高い。

 縁結び大学:【長野県青木村への移住】住み心地はどう?暮らしの特徴・仕事・支援情報 https://jsbs2012.jp/date/aoki-iju によると、

青木村へ移住する魅力は?

特徴1:温泉やアウトドアも!自然の恵みを満喫できる

特徴2:村全体で子どもを見守ってくれる!子育てしやすい環境

特徴3:あらゆる場所へアクセスしやすい!村内の移動も便利

仕事:近隣自治体とあわせて選択肢が豊富

住まい:空き家バンクが活用でき、支援制度が手厚い

暮らし:行事が多い分、地域の方と深くつながれる

コミュニティの温かさ: 地域の方々が移住者を温かく迎え入れてくれる風土があり、特に子育て世帯にとっては安心して暮らせる環境である

青木村」の子育てしやすい環境

 「心豊かでたくましい子どもの育成―社会力(生きる力)を育てる―」「村の子どもは村の宝として村で育てる」という青木村の教育目標も、村民の志を力強く謳っている。

 青木村では、保育園から中学校までの一貫教育を行っている。保育園では自然保育が行われており、子どもが小さなうちからたくさんの自然に触れさせてあげることができる。また、保育料の減免措置により、第2子は半額で第3子以降は無料になる。さらに、「福祉医療費補助制度」により、0歳~18歳(高校卒業まで)の子どもの医療費は無料である。

4.共同浴場「有乳湯(うちゆ)」

田澤温泉 有乳湯(うちゆ) 子宝の湯として古くから愛される共同浴場

 昔から子宝の湯として、また乳の出が良くなる温泉として知られている。「有乳湯(うちゆ)」という変わった名の由来は、その昔この地に山姥が湯治に来て、大江山の鬼退治の話で有名な坂田金時を生んだという伝説にある。女性に卓効のある湯として、子のない婦人が37日、お乳の少ない婦人は27日入浴すれば効き目があらわれるという逸話が今も生きており、別名「子宝の湯」や「子持ちの湯」、「はらみ湯」などの呼び名がある。

湯船の様子(こちらは女性用で、男性用は、これと左右対称形である。

湯気や人が写り込まない夜の8時半過ぎの清掃前に撮影させていただいた) 

 10名ほどでいっぱいになりそうな湯船には、自然に湧出した極上の湯が、何ら手を加えることなく絶え間なくかけ流されており、温度も40℃前後で長湯が楽しめる。入浴していると小さな気泡が肌を覆い、温泉の新鮮さが伺える。

 無色透明でなめらかな肌ざわりが特徴の体に優しいお湯は、長湯しても疲れにくく、リラックス効果が高い。

 有乳湯の湯船に注がれている田澤温泉2号泉は、湧出量238リットル/分(掘削自噴)、pH9.3、成分総計228mg/kgの単純硫黄温泉(アルカリ性低張温泉)である。塩化物泉に炭酸水素塩、硫酸塩、炭酸塩、硫化水素塩がバランスよく混じる絶妙の湯である。

 「ほんのりと香る硫黄臭」「肌がツルツルになるアルカリ性泉」「全身を覆い尽くすほどの泡付き」「夏場でも長湯ができてしまう適温のぬる湯」といった定評がある。

 「自然を楽しんでもらいたい」と、“ころころ”と笑顔で接客をする番台の女性が印象的であった。その上、入浴料は200円と破格の安さである。(子どもは100円)

温泉宿詳細情報

宿名

田沢温泉 有乳湯(うちゆ)

住所

〒386-1601
長野県小県郡青木村田沢2700

連絡先

0268-49-0052

公式HP

http://www.vill.aoki.nagano.jp/assoc/hotsprig/hotspring2.html

5.「富士屋」:不老長寿の湯として知られる「仙人湯(やまどゆ)」と「有乳湯」の2種類の湯をゆったりと楽しめる宿

露天風呂の「仙人湯」と内湯の「有乳湯」

不老長寿の湯として有名な 『仙人湯(やまどゆ)』

 不老長寿の湯として有名な 『仙人湯(やまどゆ)』(露天風呂)と「有乳湯」(内湯)の2種類のお湯を楽しめる富士屋さんを紹介する。

仙人湯(やまどゆ)

(つるつる感がとても気持ちのいい単純硫黄泉で、男女別々の露天風呂からの

山々の眺めも最高。夜は満点の星空が輝き、至福のひとときを味わえる)

 露天風呂の『仙人湯(やまどゆ)』は、その昔、役行者が入浴して温泉の効果をためそうとしたところ、白髪の先客がいて「この温泉に入ると年とともに身体強壮、精神爽快になり、二百歳をこえてもかくの如し」と言ってその効果を説いたという、不老長寿の温泉として知られている。

 仙人湯の泉質は、pH9.6、成分総計189mg/kg、無色透明で、硫黄の香りが特徴の単純硫黄泉である。塩化物泉にメタケイ酸、炭酸水素塩、硫酸塩、炭酸塩がバランスよく混じる絶妙の湯である。

 源泉温度が35℃と低めなので、6:00~22:30まで加温して循環し、塩素系の消毒をしているそうであるが、それでもなお十分な還元力を保っているのが嬉しい。

 効能としては、婦人病、不妊症、冷え性リューマチ、高血圧、創傷、神経痛、糖尿病、関節痛、慢性皮膚病などに効果があるとのこと。

内湯:源泉は有乳湯(うちゆ)と同じ<子宝の湯>

 内風呂のお湯は、共同湯「有乳湯」と同じ源泉で、別名「子宝の湯」である。なめらかできめ細かく肌にソフトで、よく温まる湯として名高い。 

富士屋の風情

 春には庭園のレンゲ、つつじ、さつきが次々と咲き乱れ、さながら花のじゅうたんに変化する富士屋の庭園は必見である。また、岩石造りの展望露天風呂は、月と星降る夜空の眺めが素晴しく、秋には山々の紅葉が映えわたり、湯船に散る落ち葉が風情を醸しだす。

 部屋はすべて純和風で、ゆったりと落ち着ける空間だ。庭に面した部屋からは、四季折々の花々や山々の風景を満喫できる。

信州の四季を味わえる宿

里山会席料理(旬の素材を使った四季折々の会席)

 素朴ながら味わいのある山菜料理(ウドやフキ、こごみ、ワラビ、秋には松茸をはじめとするキノコなど)や川魚料理(マスやイワナなど)が魅力だ。自然が育んだ旬の食材で、てんぷらや鍋、焼魚など、信州の四季折々の味覚を楽しめる。

夕食(一例)

朝食(一例)

武井社長の想い(令和4年10月20日の面談より)

 武井社長は、「富士屋」の立て直しに関わって令和4年の4月で丸3年になり、令和2年9月から現職にある。驚いたことに、武井社長は、第7話で紹介した「上山田温泉」の老舗旅館 「玉の湯(旧、竹の湯)」の元経営者である。

 武井社長の親世代が、昭和30年代後半から40年代の温泉ブームに乗って、旅館を大きくし過ぎたツケが回り、実家が廃業に追い込まれた経験を糧に、持続可能な経営を学び、それを周りに伝えるいまの仕事に生き甲斐を見出しておられる。

 この3年で「富士屋」の経営の立て直しは成ったそうで、秋の松茸料理なども新規に取り入れ、客層を広げているとのこと。

 宿の半分は、地域資源を活用した公のもの(公物)と考えており、売り上げの7割は地元に還元している。最近では、地元民に配慮した日帰り入浴も始めている。 

 奇遇にも、この面談のあと我々が泊まる「亀清旅館」(当研究会がベース基地としている常連の宿)のご子息のアンドリュー君に、経営ノウハウの指導に行かれるとのこと。

 突然の訪問にもかかわらず、ご丁寧に対応していただいたうえに、まさにシンクロしたような成り行きに、研究会一同、不思議なご縁を感じざるを得なかった。

 そして、一度の失敗に負けない強靭な精神と温泉愛がにじみ出ているお人柄に共感した。

武井功社長

温泉宿詳細情報

宿名

信州田沢温泉富士屋

住所

〒386-1601
長野県小県郡青木村田沢温泉2689

連絡先

0268-49-3111

公式HP

https://fujiya-h.com/

6.田澤温泉郷の地形・地質

 田澤温泉は千曲川支流の浦野川上流の谷間に位置する。付近には別所温泉、上山田温泉、びんぐし湯さん館がある。これらの温泉を含めて同じような地質状況にあり、フォッサマグナの中の新第三紀の砂岩、泥岩などが厚く堆積する地域にあたる。

 安山岩などの貫入岩が点々と分布し、地形的なリニアメントが2方向に見られるため断層の存在が推定される。

 したがって温泉は、推定断層や貫入岩沿いから湧出していると考えられる。

 

お宝温泉物語by地域ジオ資源研究会(第7話)

上山田温泉(1):全体像と第一号公衆浴場「かめ乃湯」

明治時代から営々と築き上げてきた「上山田Base」の底力

日本最高級の還元力と湯量、そして「地の利」に恵まれた温泉地 

上山田温泉街への玄関口(万葉橋)から
山上の城山史跡公園(荒砥城跡)と「善光寺大本願別院」を望む

はじめに—上山田Base(上山田基地)

ベース基地:「亀清旅館」

 上山田温泉は、当研究会のベース基地のようなところである。北陸新幹線上田駅の温泉口に集合し、車に分乗して一帯の温泉調査を行い、常宿にしている上山田温泉「亀清旅館」に泊まって、温泉と会食を楽しむ。

 せっかく泊まるなら、居心地がよく気心の知れた宿が一番である。「亀清旅館」の3代目を継いだタイラーさんと磨利さんご夫婦、大学を卒業して某温泉で修行中の息子さんのアンドリューくんは、言ってみれば、「お宝温泉物語」を紡いでいく同志である。

ベース基地の条件

 個々の旅館の詳細は、今後の上山田温泉(2)に譲るとして、日本最高級の還元力の高さと湯量の豊富さを誇る温泉の素晴らしさに加え、「地の利」の良さ、個性に富んだ旅館の選択肢の多さ、温泉地全体としての利用客の収容力の大きさが、ベース基地としての条件であり、魅力でもある。

「お宝温泉巡り」の基地

 上山田温泉街から万葉橋を渡った千曲川の対岸には、新戸倉温泉日帰り温泉施設の「万葉超音波温泉」と「戸倉観世温泉」がある。また、お隣の坂城町にある日帰り温泉施設「びんぐし湯さん館」まで車で約15分、山を越えた青木村の「田澤温泉」まで約40分、第3話で紹介した「高峰温泉」まで約1時間5分という便利さである。

 さらに高速道路を使えば、「小布施温泉」まで約45分、第2話で紹介した「野沢温泉」まで約1時間10分で行けるなど、「上山田Base」は「お宝温泉巡り」には格好の「地の利」に恵まれている。

「温泉スキー」の基地

 冬の温泉スキーを楽しむなら、湯の丸スキー場や高峰マウンテンパークスキー場まで車で約50分、飯綱リゾートスキー場、戸隠スキー場、志賀高原最奥の熊の湯・横手山スキー場なども、高速道路を使えば片道1時間半以内の日帰り圏内である。

 スキー帰りに、極上の湯で足腰の疲れを癒しに立ち寄れる気軽さも嬉しい。効能あらたかで、疲れや筋肉痛を翌日に残さないし、膝の靭帯の損傷や肩の脱臼のリハビリにもここのお湯はよく効く。

「お宝温泉巡りや遊びの基地(Base)」としての発展性

 上山田温泉は、こうした「地の利」を活かし、「お宝温泉巡りや遊びの基地(Base)」としての発展性が大いに期待できる、というのが当研究会活動や管理人個人の体験に基づく実感である。総合的に観た温泉地としての底力が、圧倒的に(横綱級に)素晴らしいのである。

 以下、その温泉地としての底力の起源に迫る。

2005年に先代が他界して跡継ぎがなく廃業の危機にあった「亀清旅館」

跡を継ぐ決意をしてシアトルから戻ってきた3代目のタイラーさんと

磨利さんご夫婦が営む「上質の空間と手作りのあたたかさが評判の宿」

1.温泉地の魅力・見所

 上山田温泉は、千曲川河畔に開かれた湯量が豊かな温泉地である。明治36年1903年)に開湯し、昨年120周年を迎えた。50本以上の源泉があり、豊富な湯量で源泉をかけ流す贅沢さ、お湯の新鮮さ(還元力の高さ)が魅力である。

 日帰り温泉施設もいくつかあり、地域の人々や観光客の憩いの場として人気である。どこか懐かしさを感じさせる昭和のノスタルジーが漂う温泉街や、城山史跡公園の散策、千曲川沿いのウォーキングやサイクリング、川遊びなどでスローな旅を過ごすのもおすすめである。

 散策に疲れたら、「恵の泉・湯のみ処」、「カラコロの足湯」、「陽だまりの湯」などの飲泉所・足湯で、ほっと一息。アルカリ性単純硫黄泉の飲用により、糖尿病・痛風・便秘の改善といった効果が期待されるそうだ。

 温泉街から裏手の急坂を登ったところにある「城山史跡公園(荒砥城跡)」手前の「善光寺大本願別院」は、温泉街や千曲川を一望できる絶景スポットである。その向かいに建つ、歴代125代天皇肖像画を常設展示している「日本歴史館」も、何故ここにと思わせる、独特の雰囲気をもつ見どころの一つである。

 地域の子どもたちに歴史や掘削技術などを学ぶ場をつくろうと開設した「温泉資料館」も、温泉ファンにとって必見である。ここは、上山田温泉を産み育て、守ってきた底力の大元である「上山田温泉株式会社」の敷地内にあり、平日に無料で見学できる。

 幻想的な景色が人々を魅了し続ける「姥捨の棚田」と夜景も、戸倉上山田温泉のすぐ山隣で楽しめる。各宿から、夕食後に姥捨ての夜景と地元の酒屋などを巡るツアーもある。

 この一帯の山地の中腹から山麓には、縄文遺跡が多く発掘されており、原始・古代から人びとが豊かに生活してきた地域なのだ。

千曲川河畔の広々とした公園でウォーキングやサイクリング、

川遊びが楽しめる

城山にある「善光寺大本願別院 城泉山観音寺」の境内からは、

温泉街と千曲川が一望できる

城山史跡公園の手前に位置する「善光寺大本願別院 城泉山観音寺」

本堂の天井に描かれている「昇り龍」は必見である

善光寺大本願別院の向かいに建つ「日本歴史館」

(馬堀喜孝画伯による歴代125代天皇肖像画を常設展示している。

肖像画の永久保存に最も適した乾湿の当地が選定され、昭和44年に完成)

2.明治時代からの温泉開発の歴史—温泉地としての底力の起源

 では、『上山田温泉株式会社創立百周年記念誌―いのちあたたまる温泉―』(発行:上山田温泉株式会社、平成19年4月8日)を引用しながら、戸倉上山田温泉の歴史(温泉地としての底力の起源)をたどってみる。

千曲川の氾濫から温泉を守る堤防の築造と温泉掘削の申請をするまでの長い年月

明治元年(1868年)の川原に湧く温泉の発見から明治34年(1901年)の温泉掘削の申請まで―

 千曲川は、長野県では千曲川新潟県では信濃川と呼ばれており、全長が367km(うち千曲川が214km)の日本で一番長い河川である。

 江戸時代(1710年~1780年頃)には、千曲川河川敷で新田開発が行われ、千曲川から水を引く灌漑用水や堰が開かれた。

 戸倉上山田温泉は、明治元年(1868年)に河原に湧く温泉が発見され、長野県に温泉掘削願いが出されたが、川原に湧く温泉は河川がからむので開発も容易でなかった。明治4年(1872年)に定められた「水理堤防規則」により、温泉を洪水から守る堤防や水制は、たとえ私費であっても長野県を経て内務省へ願い出て、許可がなければ普請ができなくなったのである。

 加えて、洪水による川筋の変遷は日常的で、上山田村と戸倉村の境界争論を収め、温泉掘削の隣地地権者や村々の承諾を得て、長野県に申請するまで長い年月を要した。

上山田温泉創設委員の任命(明治34年:1901年)

 上山田村では、明治34年(1901年)に温泉創設委員8名が任命され、温泉掘削願いを長野県に提出した。第一号源泉の掘削地点は、現在は温泉街の一画になっているが、千曲川の支流が流れる川原であった。

 また、温泉創設委員は、大通りを開き、その両側に敷地割をした土地を整備し、旅館経営希望者に貸し出した。

上山田温泉第一号浴場「かめ乃湯」の開設明治36年1903年

 明治35年(1902年)に温泉を掘削しようとしたとき、亀が水辺に遊ぶのを見て掘る場所を決めたと伝えられており、翌年開設された第一号浴場は、それにちなんで「かめ乃湯」と命名された。

 掘削深度26メートルのところから、57℃の源泉が湧いた。

底力の大元「上山田温泉株式会社」の設立(明治40年:1907年)

 「かめ乃湯」は、洪水被害もあって経営は困難であった。村長に経営の肩代わりを交渉したが断られ、自力経営の方法を検討することになった。

 明治40年(1907年)に、入浴料の徴取を始めるとともに、資金を調達するため株式会社を設立した。収入の内訳は、当初は入浴料が主な収入源であったが、旅館・商家が増えてくると、地代や温泉旅館への温泉営業権の入札販売と内湯給湯料が大きな収入源となった。

 この仕組みが、上山田温泉を産み育て、守ってきた底力の大元である。現在、18本の掘削井を所有し、供給数は52箇所とのことである(株式会社のホームページより)。

「自衛堤防」の築造(大正4年:1915年~)

 上山田温泉株式会社は、大正4年(1915年)に温泉場を守るための「自営堤防」を計画し、水制(牛枠)や水防林を設置した。また、大正7年(1918年)からの千曲川第一期改修工事では、上山田村の負担額の一部を上山田温泉株式会社が負担した。

国の大改修工事により温泉を守る堤防が完成大正11年:1922年)

 信越線の停車場(戸倉駅)の設置、温泉場へ渡る橋の建設などに伴い、大正7年(1918年)には降客数が10万人を超えるようになった。

 たびたび洪水で施設が流され、長い間水害との戦いが続いたが、大正11年(1922年)に国の大改修工事で温泉を守る堤防が完成し、長年の水害からようやく脱出した。

内湯旅館の発展(大正末期から昭和前期にかけて)

 水害被害の心配がなくなり、街は一気に温泉街として発展した。旅館に内湯用の温泉が配湯され、街には商店・飲食店・芸妓置屋大衆演劇場が作られた。

 大正末期から昭和前期にかけての内湯旅館の発展に伴い、給湯量が増加し、温泉井の掘削も盛んになった。

 戦時体制下には、坂城町にあった軍需工場の従業員の団体利用や検査に訪れる監督者の接待などで賑わった。

全国的に温泉地として知られ始めた(昭和30年代:1955年~)

 昭和30年代になると、全国温泉コンクールで第5位に入選するなど、全国的に温泉地として知られるようになった。高度経済成長の波に乗り、上山田温泉の旅館数30軒ほどで、昭和37年(1962年)の観光客数は60万人に達した。

温泉ブームで旅館・ホテルの中高層建築が始まり、

温泉街の景観が一変する(昭和40年代:1965年~)

 昭和40年代になると、1969年(昭和44年)のテレビドラマ「天と地と」ブームなどもあり、大型バスによる団体客の増加にあわせて旅館・ホテルの中高層建築が始まり、温泉街の景観が一変した。この頃、「善光寺別院 城泉山観音寺」が新設された。

 昭和48年(1973年)には、年間利用者が100万人を超え、長野県で最大規模の温泉地となった。

衰退の始まり(昭和50年代から:1975年~)

 しかし、昭和50年代前半には、大きくし過ぎたツケが回り、経営難から廃業する旅館やホテルが相次いだ。昭和40年代に70軒あった温泉旅館が、20軒に激減し現在に至っている。

温泉地のこれから

 けれども、「はじめに」で述べたように、上山田Base(上山田基地)は、明治時代から築き上げた底力と、横綱級の「お宝温泉」をもつ一大観光地であることに変わりはない。

 「どこか懐かしさを感じさせる昭和のノスタルジーが漂う雰囲気のなか、日常から離れてリフレッシュすることができる」と、今、若い世代からも注目が集まっているそうだ。観光スポットやおいしいグルメ、そしてちょっとディープな夜も楽しむことができる。

 これからの「お宝温泉巡りや遊びの基地(Base)」あるいは「保養の基地(Base)」としての新たな発展(復活、甦り)を期待したい。

上山田温泉の源泉

 上山田温泉株式会社が所有している掘削井のうち、現在は15本(延べ643m)の掘削井の源泉を使っており、総湯量は2900リットル/分もあるとのこと。

 これを20軒の温泉旅館で使っている。高温60℃~低温30℃の源泉を調合し、42,43℃に調合して供給している。

 上記の15本の井戸のほか、城山の麓にあった信州観光ホテル(当時は随一の規模を誇った)がもっていた3本の井戸を買い取っている。この源泉は、60℃の高温である。

 上山田温泉株式会社直営の「かめ乃湯」では、この15本の掘削井の源泉と城山の源泉を混合して使っている。

 源泉は、ほとんど無色澄明で、強硫黄味・硫化水素臭を有する。pH8.7、蒸発残留物0.535g/kg。塩化物泉主体で、硫酸塩、メタケイ酸塩、炭酸水素塩、硫化水素塩をバランスよく含む、アルカリ性単純硫黄泉(低張性アルカリ性高温泉)である。

3.上山田温泉開湯第一号浴場「かめ乃湯」

 千曲川のほとりに、120年前から地元に愛され続けてきた公衆浴場がある。上山田温泉開湯第一号浴場の「かめ乃湯」である。

 明治36年1903年)に開設された「かめ乃湯」は、数度の改築を経て、近代的で清潔感あふれる公衆浴場として、今日も地元や遠方から訪れる客でにぎわいをみせている。

建物の入口からの外観(利用料¥290の安さが嬉しい)

路地は狭いが、駐車場はそこそこ広い。

外湯:露天風呂と陶器風呂(「かめ乃湯」公式ホームページより)

陶器風呂が2つあるのが嬉しい。

内湯:メインの浴槽とジェット風呂(「かめ乃湯」公式ホームページより)

循環しているはずのジェット風呂の還元力も十分に高い。

外湯:露天風呂と陶器風呂(「かめ乃湯」公式ホームページより)
陽射しによって温泉の色が少し変化する

 訪れたのは平日の午後だったのだが地元の常連客で非常に賑わっており、皆で談笑しながら湯船に浸かっていた。内湯はメインの浴槽とジェットバスの2つ。外湯に露天風呂と陶器風呂がある。内湯は熱めの湯加減で少し硫黄の香りがする。

陶器風呂(「かめ乃湯」公式ホームページより)

公衆浴場で壺風呂の新鮮なお湯を独り占めできる贅沢感

 外湯は外気の影響もあってか少しぬるめで長湯に向いている印象だ。地元の方々も外湯で仲間と雑談をしながら長湯を楽しんでいるようだった。

 どの浴槽も源泉かけ流しであり、湯上りにはなかなか汗が引かずにいつまでもじんわりと温かく、肌もすべすべとして一皮むけたような感覚になる美肌の湯である。

 常連客とわいわいにぎやかに楽しめる、まさに地元に愛されている公衆浴場だ。

明るく清潔感のある館内(「かめ乃湯」公式ホームページより)

館長より

 千曲川のほとり、旅情豊かな上山田温泉は、先人たちが苦難の末、明治三十六年に開湯しました。 以来流れ続ける良質な天然硫黄泉を利用し、大湯でもある「公衆浴場 かめ乃湯」は、百年を越え地域の人々に愛され続けています。贅沢な源泉掛け流しの心地よい湯かげんは、心にも体にも潤いを与えます。 地域の憩いの場でもある「公衆浴場 かめ乃湯」で楽しいひとときをお楽しみください。

                          四代目若旦那 後藤英男

4.上山田温泉の地形・地質

 上山田温泉は、千曲川長野盆地に出る前の谷底平野にある。千曲川の左岸側に上山田温泉、対岸の右岸側に新戸倉温泉が位置している。

 周辺の地質は、フォッサマグナ(大きな溝、大地溝帯)に厚く堆積した新第三紀の砂岩泥岩が主体をなし、新第三紀に貫入した火山岩類が温泉の西方に広がり、千曲川沿いにも火山岩類の小岩体が点々と分布する。

 地質図に断層は示されていないが、千曲川の流路方向のリニアメントがある。両温泉の泉質や泉温が類似することから、両温泉はリニアメントの方向に伏在する火山岩沿いに湧出すると考えられる。

温泉宿詳細情報

宿名

公衆浴場 湯元 かめ乃湯

住所

〒389-0821
長野県千曲市上山田温泉1-27-11

連絡先

TEL:026-276-4664

公式HP

https://kamiyamada-onsen.co.jp/kamenoyu/

 

お宝温泉物語by地域ジオ資源研究会(第6話)

清津峡湯元温泉「清津館」

日本三大渓谷「清津峡」に天然ガスとともに自噴した

グリーンタフ型温泉

人気の観光スポット『清津峡渓谷トンネル』の入口に位置する「清津館」

(初代館主・桑原清吉氏の強運がこの地にお宝温泉を産み、

一家7名中5名死亡という雪崩災害の苦難も乗り越えてきた)

はじめに(プロローグ)

知る人ぞ知る温泉

 今でこそ新幹線や関越道が近くを通って交通の便がよくなり、日本三大峡谷「清津峡」と「清津峡渓谷トンネル」という観光地として賑わっているが、以前は上越線越後川口駅から飯山線経由という不便さと、豪雪地帯のために冬は交通が途絶えるという僻地(へきち)だったせいか、今でも清津峡温泉を知る人は少ない。

「薬師の湯」の起源

 1970年(昭和45年)に、初代館主・桑原清吉氏により本格的な温泉掘削が行われ、掘削中に天然ガスが噴出し、その圧力によって温泉が自噴したのが、清津館の「薬師の湯」である。

 深さ約400mまで掘削したとき湯脈の中心に当たり、約50℃の高温のお湯が地上30~40mも噴き上げる圧力で噴出してきた。このお湯は、全く使い切れないほどの途方もなく豊富な湯量であった。おまけに、このお湯と一緒に天然ガスも噴出し、これも炊事用と暖房用に24時間燃やし放しでも使い切れない状態であったという。

初代館主による約50年の基盤づくりと雪崩災害の苦難を乗り越えてからの40年の歴史

 清津館の歴史を振り返ると、初代館主・桑原清吉氏による約50年に及ぶ基盤づくりがある。そして、清吉氏の死後、大雪崩で一家7人中5人を失うという悲劇が清津館を襲う。その時、奇跡の生還を果たした大女将(初代館主・清吉氏の娘)の静子氏と息子の清氏のお二人による、苦難を乗り越えての旅館の再建から、もう40年である。

1.「薬師の湯」を掘り当てるまでの約50年の歩み

初代館主・桑原清吉氏が清津峡に移り住む(1922年:大正11年、38歳)

 川崎久一著:『桑原清吉一代聞き書き帳』によると、1884年明治17年)生まれの初代館主・桑原清吉氏が、料理屋、木炭、コークス、石炭の販売や中魚沼地域の食料品や日用雑貨を扱う卸売りで成功し、この地に移り住んだのは、38歳(1922年:大正11年)のときである。当時は、2軒の温泉宿があるのみであった。

清津川の発電事業を構想し、水利権を獲得する(1930年:昭和5年、46歳)

 その翌年から、地域に電灯をつけるという目的で、清津川の発電事業を構想するようになった。まず、後に「中部電力」に吸収合併された会社を設立し、もう1社と共同で県に水利権を申請し、1930年(昭和5年)に水利権を獲得した。

清津川発電計画の挫折により発電所の建設予定地を譲り受ける(1934年:昭和9年、50歳)

 50歳になった1934年(昭和9年)には、いよいよ清津川発電事業の本工事に着工となる寸前、法律の改正によって、年間を通し平均した出力による送電のできない発電所は不許可となり、清津川発電計画が挫折する。

 しかし、この挫折が、清吉氏にとっては逆に幸運をもたらすことになった。というのも、今まで発電所のために買収してきた土地などは全部不要になり、「中部電力」は、それをそっくり清吉氏に譲ることにしたからである。

 現在の清津館をはじめ、駐車場や食堂、養鯉場などの土地やその周辺の山林など、合わせて2ヘクタールが発電所の建設予定地であったのである。

清津峡の上信越国立公園への編入と「清津館」の宿舎事業登録(1949年:昭和24年、65歳)

 1949年(昭和24年)には、清吉氏の貢献もあって、清津峡が上信越国立公園に編入されることになり、元々の湯治宿を改め、「清津館」として宿舎事業登録した。

 48歳になった1932年(昭和7年)に、県から温泉井戸の掘削許可を得て以降、全財産を投入して井戸掘りを進めたが思うように行かず、資金が尽きてしまった。

 長野県庁の土木部長から飛島組に入って飯山線の敷設工事をしていた和田鉄二氏の助けで、飛島組から出世払いで資金を出してもらい、井戸を100mほど掘って39℃くらいのお湯が出たのが、57歳になった1941年(昭和16年)のことである。

 しかし、本格的な温泉旅館をやるには湯量が不足していた。

温泉井戸の掘削(1970年:昭和45年、86歳)

 国立公園に編入されてから、温泉審議会から温泉の掘削許可がおりるまで難儀したが、ようやく昭和44年12月に掘削許可がおり、昭和45年2月から掘削に着手した。

 そして、昭和45年7月に、はじめに(プロローグ)で述べたように、約50℃の高温のお湯が驚くような湯量で噴出した。(詳しくは、4.「薬師の湯」の由来に譲る。)

 同業者がこの4ヶ月後に桑原の井戸とわずか30mほどしか離れていない場所に井戸を掘ったが、遂にお湯は出なかった。その後さらに6本の井戸を掘ったが、一本もお湯が出なかったのである。

 地質調査もせず、清津郷を守るための薬師如来像が祀ってある場所で、あるとき頬をかすめたかすかな温泉臭を如来様のお告げと確信し、お宝温泉を掘り当てた清吉翁の強運は、この地を「中部電力」から譲り受けた幸運と合わせて、まさに天の恩寵を受けたかのように感じられる。 

 清吉氏は、1979年(昭和54年)に96歳で永眠。

 初代館主・桑原清吉翁(この地にお宝温泉を産んだ強運の持ち主)
写真提供:桑原清氏

2.「五九豪雪」の大雪崩災害と旅館の再建

「五九豪雪」の大雪崩に巻き込まれる

 清吉氏の没後5年目、1984年(昭和59年)2月9日の夕方5時20分頃に発生した大雪崩によって、清津館の一家7名のうち5名が死亡した。

 生き残った女将の静子氏(当時48歳)と息子の清氏(当時28歳)の2名は、一瞬にして大女将のハルさん(88歳)、2代目館主の久丸さん(58歳)、清氏の妻の栄美さん(28歳)、二人のお子さん(4歳と1歳)を失った。旅館も、雪崩で全て流されてしまった。愛犬キング(雑種、8歳のオス)だけが、5日ぶりに奇跡の生還を果たした。

 このとき生き埋めになった清氏は、雪かきで外に出ていて、たまたまスコップを持っていたことも幸いし、何とか9時間後に発見してもらい生還できた。まさに九死に一生を得た。

当時の新聞記事の切り抜きより

大雪崩の様子

 雪崩は清津川対岸の山の上から発生し、渓谷沿いの苗場館を直撃したあと、裏山で反転(ターン)して木造3階建の清津館を飲み込んだ。幸いにも苗場館は冬季休業中で、死傷者は出なかった。当時の積雪は5メートル以上だったとされている。

清津川対岸の山の上から発生し、裏山で反転(ターン)した雪崩の様子

「五九雪崩」の特徴

 『消防史』によると、この冬の特徴として気温が低い状態が長く続き、平年より乾いた雪で気温が低かったため降り積もった雪は氷のように締め固まった。堆積断面に平行の縞模様が見られるのが一般的であるが、この年の場合はこの縞模様が判別しにくく、日照時間が少なくて雪が融けにくかったことを示していた。

 清津峡では、2月3日から11日まで8日間連続して降雪が続き、2月9日の夕方5時25分頃雪崩が発生した。この雪崩は、清津川対岸の高さ400mから、厚さ7m、幅50~100mにわたる約22万5000m3の規模であった。

旅館の再建

 生き残った女将の静子氏と息子の清氏は、様々な苦労の末、3年後の1986年(昭和61年)に鉄筋コンクリート製の新しい清津館を再建した。

 いまは大女将の静子氏は、清氏が一人だけでも生き残ってくれたから続けられたと、大事にとってあった当時の記録をたくさん抱えてきて見せてくださった。あれから40年の歳月が刻まれている。

 女将の昌子氏は、犠牲になった5人が守ってくれている事と思い、毎年2月9日になるとロウソクを灯してご冥福をお祈りしている。(ホームページ:女将の一言より)

旅館の未来

 清氏と昌子氏は男女各2人の4人の子宝に恵まれ、長男の仁氏は清津館の料理長としてもう10年になり、静子氏にとっては「ひ孫」にあたる2人のお子さんがおられる。

 東京でIT企業に勤めている次男さんも帰ってきて、兄弟で一緒に旅館を支えていく将来の姿も思い描いておられるようで、静子大女将が温かく見守るなか、清津館は未来に向かってたくましく歩み続けている。

3.日本三大峡谷『清津峡』と『清津峡渓谷トンネル』

日本三大峡谷『清津峡』

 清津峡の成り立ちは、今から約1600万年前のまだこの地が海の底であった時代にさかのぼる。当時の海底火山によって火山灰が積もりグリーンタフ(緑色凝灰岩)の地層が形成された。約500万年前、緑色凝灰岩の地層に地下からマグマが流入し、それが冷え固まって「ひん岩」となり、冷える際に体積が収縮したことで「柱状節理」による六角形の柱状の岩ができ上がった。

 その後隆起して山となり、清津川によって削られ、地下の「ひん岩」の柱状節理が谷底に顔を出し、次第に谷間が深くなり、現在の清津峡ができた。

清津川沿いの渓谷

渓谷の上部斜面の様子

「ひん岩」の「柱状節理」による六角形の柱状の岩

清津峡渓谷トンネル』

 現在は観光客が多く訪れる清津峡だが、以前は峡谷沿いの清津峡登山道を通って渓谷を楽しむ(縦走する)登山客や釣り客が多かった。

 清津峡の岩崖は柱状節理であるために岩そのものは硬いが、六角形の柱状の割れ目部分から崩れやすい特徴を持っており、度々崩落が発生していた。そして、峡谷沿いの清津峡登山道は1988年(昭和63年)の崩落事故以来立ち入り禁止となっている。

 しかし、途方もない時間が生み出した「屏風岩」と呼ばれる柱状節理が素晴らしい峡谷美を観光できる手段はないものか、との地域住民らの要望を環境庁などが検討し、安全で景観を損なわない手段として歩道トンネルの建設が決定された。
 1996年(平成8年)に完成した『清津峡渓谷トンネル』は、インスタ映えするその独特な景色の楽しみ方が話題となり、老若男女問わず注目される観光の目玉となっている。

清津峡渓谷トンネル』の坑口

トンネル内部の様子

人気の撮影スポット

4.「清津館」について

「薬師の湯」の由来

 「薬師の湯」の名前の由来は、清津館の敷地内に安置されている上杉謙信公ゆかりの薬師如来像にある。その像のすぐそばから天然ガスとともに温泉が自噴したのである。

 清吉氏直筆の書には、「ある日(薬師如来像を)礼拝中、突然如来像から霞が立ち昇り、翁の顔を撫でながら、かすかに硫黄の匂いを残しつつ、次第に玉になってくるくると、一地点に消えて去った。これぞ如来様のお告げと確信し、その地に鑿井(さくせい)を開始したが、なかなか湯脈に当たらず、絶望のうちに最後のパイプに如来を念じつつ打ち込んだ。突如もうもうたる蒸気と共に50℃の熱湯が噴き出した」と、その時の様子が記されている。

源泉の井戸と清津館の湯船

 源泉の井戸は清津館の敷地内にあり、49℃の源泉は地下から自然の力で湧出しているので、空気に触れることなく湯船にそそがれている。源泉から湯船までが近いので、劣化が少ない新鮮な温泉を堪能できる。

 湯量は約56リットル/分で、一度タンクに入れてガス抜きをしてから湯船へ引いている。

「薬師の湯」源泉の井戸

内風呂(秋の曇り日)

日によって温泉の色が変わるよう(夏の晴天日)

清津川沿いの貸切露天風呂

(ダイナミックな景色とせせらぎを堪能しながら2種類の泉質を楽しめる)

グリーンタフ型温泉とは?

 約2000万年前にはじまる地殻変動(グリーンタフ変動)によって、日本列島は大陸から切り離されて、日本海が生まれ、弧状列島として生まれかわった。海底に蓄積した火山噴出物は変質して、グリーンタフ(緑色凝灰岩)とよばれる岩石になった。

 その後、東西に分かれていた列島がぶつかり合う造山運動によって、海底が地上に押し上げられ、グリーンタフ(緑色凝灰岩)からなる山地が形成された。(5.で後述するように、清津峡温泉はフォッサマグナの東縁に位置する。)

  新潟から秋田にかけての日本海側のグリーンタフが多く分布する地域には、豊富な金属鉱床をはじめ石油や天然ガスが埋もれていて、グリーンタフ中の天然ガスは、火山性貯留岩周辺の泥質たい積岩から移動してきたものと推定されている。

 グリーンタフ型温泉は、このグリーンタフ(緑色凝灰岩)に閉じ込められた海水成分が熱せられた地下水に溶出してできた温泉で、主に硫酸塩泉や塩化物泉が多く見られる。

 清津館の源泉は、そういった地質構造に起因するグリーンタフ型温泉である。

「薬師の湯」の泉質

 「薬師の湯」の泉質は、塩化物泉主体に硫酸塩、炭酸水素塩、メタホウ酸塩の混じる泉質で、pH9.2、成分総計702mg/kgである。還元力が非常に高く、肌に柔らかい絹のような感触の名湯である。温泉成分表はこちら

「手作り名湯せっけん」

 この源泉の還元力の高さにほれ込んだ「温泉エネルギィ研究所」の方の勧めで、女将自ら手作りの「手作り名湯せっけん きよつきょう」という清津館オリジナルのせっけんを作製・販売している。

 原材料は、せっけん素地、清津館源泉、ハーブオイル、天然はちみつで、人工添加物(香料、色素、泡立ち剤)は一切無しである。素手で素地が肌になじむまで心をこめて練り上げ、ハーブオイルでバランスを整え、さらに天然はちみつを加えて保湿効果を高め、自然乾燥で作るそうだ。

 そのやさしい使い心地、使用後のすがすがしさ、ぬくもりで評判を得ており、「まるで温泉でくつろいでいるような気持になることと思います」と説明書きにある。

山菜・薬膳料理

 全て地のもので供される料理は伝統を守りつつも、さわやかで四季を感じさせる創作料理に仕上がっている。
 地元で採れる山菜や、川魚、そして新潟が誇る魚沼産コシヒカリと厳選した素材を使用しており、素材の味を活かしたあたたかいおふくろの味を楽しめる、清津館オリジナルの薬膳料理だ。

 清氏の長男・仁氏が10年前から料理長を務めており、大女将の静子氏から山菜料理を主に地元の料理を受け継いでいる。

体に優しい山菜・薬膳料理

3代目館主・桑原清氏の温泉にかける想い

 3代目館主・桑原 清氏の温泉にかける想いは、観光経済新聞(2022年7月21日)の記事『日本源泉湯宿を守る会 会長(新潟・清津館)桑原 清氏に聞く』によく表れている。

 「われわれは、自然に地下から湧き上がる貴重な源泉を適正な方法で利用者に提供している。自然と共生しながら適正な量と質の源泉を提供するための方法を日々研究している。本物を提供し、効果、効能など源泉の情報を明確にすることは、非日常を提供することにつながる。これは温泉を楽しみたいと宿に訪れる利用者との約束でもある」

 「まず、温泉に愛着を持ち、適切に管理すること。維持、管理が雑になれば、源泉はすぐに使い物にならなくなる。われわれは、温泉があるからこそ商売ができている。源泉、温泉の大切さを伝えながら、次世代につなぐことは、源泉の湯守としての果たすべき責任である」

 こうした想いによって守られている名湯は、利用者に究極の癒しを提供し続けている。

3代目館主の桑原清氏と女将の桑原昌子氏

5.清津峡温泉の地質 (フォッサマグナ東縁の温泉)

 温泉地一帯の地質は石英閃緑岩(石英を含むひん岩の一種)であり、清津川が峡谷を成す区間では急崖斜面に見事な柱状節理が露頭する。この石英閃緑岩はフォッサマグナの東縁にあたる柏崎―千葉構造線と新発田―小出構造線の接合点に分布するので、地下深部につながる節理や断層を介して温泉が湧き出していると考えられる。

清津川の峡谷を形成する石英閃緑岩の柱状節

 

温泉宿詳細情報

宿名

清津峡湯元温泉 清津

住所

〒949-8433 新潟県十日町市小出癸2126-1

連絡先

025-763-2181

公式HP

https://kiyotsukan.com/

 

 

お宝温泉物語by地域ジオ資源研究会(第5話)

咲花温泉 碧水荘

阿賀野川河畔に佇む碧水の宿

小出―新発田構造線の近傍に湧く最高級の還元力の高さを誇る温泉

開放的な窓越しに阿賀野川とその向こうの山々が望める内風呂

1.咲花温泉の全体像

咲花温泉のある五泉市

 咲花温泉のある五泉市は、新潟県のほぼ中央に位置し、五泉の宝である清らかで豊かな水が多様な文化や産業を育んできた。独自の高品質を誇る絹織物やニット産業、五泉ブランドのサトイモ「きぬ乙女」やレンコン「五泉美人」、チューリップやボタンなどの園芸作物、薬用魚として食味の良さで評価が高い養鯉業、そして、もちろん温泉も外せない。

 毎年4月初旬から中旬にかけて開催される「村松公園桜まつり」と「150万本のチューリップまつり」、毎年6月第2金曜に阿賀野川河畔で行われる「咲花温泉水中花火大会」(水面に仕掛けられた約300発の花火が半月状に開き、波打つ川面に反射する)などのイベントも名物となっている。

咲花温泉の起源

 咲花温泉は、1954年(昭和29年)に開湯された比較的新しい温泉である。

 その昔、阿賀野川は現在の3分の1ほどの川幅で、川原に温泉が自噴していた。地域の人たちが「つるべ井戸」で温泉を汲み、無料の共同風呂として使用していた。

 1952年(昭和27年)に地質学者の本間氏(新潟地方の名家のご出身か)が、五泉町の長谷川太郎宅で育った縁から、郷土に自分の技術を残したいと温泉の掘削を計画し、1954年(昭和29年)に深度19mから57℃の湯が湧出した。

 川原の水面に湯の花が咲いていたことから、湯の花をイメージして元々の「先鼻」の地名を「咲花」に改名し、温泉地としてPRしていった。

温泉街

 開湯後、阿賀野川ラインの観光拠点として発展を遂げるようになるが、比較的交通アクセスが悪かったため、越後湯沢温泉月岡温泉のように大型資本が流入せず、中小の宿が集まり、ほどよく鄙びた温泉街を形成している。温泉を引いている旅館、ホテルは6軒ほどで、日本観光地百選に選ばれたこともある。

 ここでは、都会の喧騒を忘れ、ゆったりとした時間を過ごすことができる。湯治場のような静かな雰囲気と風情ある温泉街が訪れる人々の心をゆったりと癒してくれる。

 鉄道なら、JR磐越西線咲花駅を下車して、駅前の案内看板のとおり、道に沿って行くとすぐ温泉街となる。

咲花温泉の発展と衰退

 1959年(昭和34年)に一水荘別館(現在の碧水荘)、望川閣、柳水園がオープンし、咲花温泉旅館協同組合が設立された。1961年(昭和36年)に咲花駅が開業し、1962年(昭和37年)に咲花観光協会が設立され、碧水荘がオープンするなど、温泉旅館の開業が相次いだ。

 1980年(昭和55年)に「阿賀野川船下り」が就航し、1982年(昭和57年)に上越新幹線が開通すると、収容力拡大を図った旅館の増改築が始まった。1985年(昭和60年)に「咲花温泉水中花火大会」の開催、1986年(昭和61年)に咲花グランドホテルがオープンし、1986年(昭和61年)~1991年(平成3年)にかけて、旅館の近代化へ向けた増改築ブームが興った。

 その後、1999年(平成11年)に「SLばんえつ物語」の定期運行開始や「おかみの会」の設立など良いニュースもあったが、平成年代以降は、度重なる水害の影響や経営難から廃業する旅館やホテルが相次ぎ、現在は6軒となっている。

(以上、一部、ウィキペディア 咲花温泉を参照)

「SLばんえつ物語」

 「SLばんえつ物語」は、新潟県の新津第一小学校に保存されていたSL(C57 180)を復元し、1999年(平成11年)から運行開始した観光列車で、新津駅―会津若松駅間を運行している臨時快速列車である。

 磐越西線の四季折々の風光明媚な景色を楽しめる、乗って良し、撮って良しのSLである。特に、咲花温泉では桜を背景にSLの写真を撮ることができるので、鉄道ファンの間で有名な撮影スポットとなっている。

源泉の特徴

 泉質は硫黄泉で、源泉温度57℃、毎分300リットルほどの湧出量があり、これを6軒の宿で分配している。硫黄泉でありながら硫酸塩泉の基準も満たしている。現在の井戸は咲花温泉6号井である。

 弱アリカリ性の強すぎない硫黄泉で、美肌の湯として名高いだけではなく、源泉の温度や外気温により温泉の色が、透明→エメラルドグリーン→グリーン→乳白色と変化するユニークな特性を持っている。

2.2011年(平成23年)7月の「新潟・福島豪雨」からの復興

「かわまちづくり」プロジェクト

 2011年(平成23年)7月の「新潟・福島豪雨」により多くの宿が床上・床下浸水の被害を受け、災害復旧事業が行われることになった。 

 このとき、堤防嵩上げによる眺望の悪化やコンクリート壁に囲まれた温泉街のあり方が問題になり、咲花温泉の大きな財産の一つである素晴らしい景観を守りたいと、碧水荘の森田克彦社長が中心となって、堤防を京都・鴨川の川床のように活用して、咲花温泉の新しい魅力を創出する「かわまちづくり」というプロジェクトを立ち上げた。

 そして、2012年(平成24年)に「咲花温泉かわまちづくり構想」が策定され、2016年(平成28年)1月には、河川空間のオープン化を図る「都市・地域再生等利用区域」に指定され、同年4月に一連の復旧事業が完了した。

 以下、『咲花温泉かわまちづくり構想推進プロジェクト報告書』(咲花きなせ堤協議会、平成25年3月)を参照しながら、咲花温泉の復興と将来構想について紹介する。

「咲花きなせ堤河床(かわどこ)」の誕生

—人と川のつながりを取り戻す未来への希望

 「咲花温泉かわまちづくりプロジェクト」の推進母体が「咲花きなせ堤協議会」である。「きなせ」とは新潟の方言で「きてください」という意味である。

 かつては河川の占有許可の法律が厳しく、旅館の川側の活用が制限されていたが、新たな法改正によりその門戸が開かれた。この取り組みは地域の人々の努力と情熱の結晶であり、咲花温泉の未来への希望となっている。

 「人と川のつながりを取り戻したいのです。水害というピンチを新しい温泉街づくりのチャンスに変えたのですから、コロナ禍もきっとチャンスに変えられるはずだと信じています」と森田社長は話す。

 そして、2011年(平成23年)9月には、新潟・福島豪雨災害からの復興を祈念する、高床式ウッドデッキ「咲花きなせ堤河床」が完成した。

 このウッドデッキは、川面に広がる壮大な景色を一望できる絶好のスポットで、湯上りのひとときを過ごすなら、阿賀野川の流れと共に穏やかな風を感じることができ、まさに心の癒しとなる。

「咲花きなせ堤河床」
(新潟・福島豪雨災害からの復興を祈念する高床式ウッドデッキ)

咲花温泉のある五泉市佐取地区の船頭と渡し

 阿賀野川猪苗代湖から流れ下っており、運送の中心が舟運であった江戸時代から、外港のある新潟と会津を結ぶ重要な経路であり、新潟から津川(咲花温泉から20kmほど上流)までは特に舟運が盛んであった。

 咲花温泉のある五泉市佐取地区でも、山から切り出した材木を筏にして運ぶ「筏流し」などが行われていた。「津川舟道」といわれ、津川は阿賀野川舟運の中継点として賑わい、日本の三大河港と称された。

 昭和30年ごろまでは阿賀野川の舟運が盛んで、佐取にも船乗りがたくさんいた。上流から材木、木炭、棚木などを、舟で泊りながら運搬していた。

 佐取にはムラの渡しがあった。小船よりもたくさん乗ることのできる30人乗りぐらいの大きさであった。佐取は五泉市に合併する前は東蒲原郡下条村に属しており、子供たちは舟で対岸の学校まで通っていた。その渡しも昭和30年の合併でなくなった。

咲花温泉全体の将来構想

 『咲花温泉かわまちづくり構想推進プロジェクト報告書』では、人と川のつながりを取り戻すための将来構想が紹介されている。

 阿賀野川ライン下りの咲花湊設置により、対岸の幹線道路(国道49号線)に位置する阿賀の里(駐車スペース)を活用して舟で行く温泉地(パークアンドボート)とする構想や、川床での食事の提供、阿賀野川水中花火イベント、星空コンサートを開催する等、様々な事業の実現を目指して精力的に取り組んでいる。

咲花温泉全体のゾーニングイメージ図
『咲花温泉かわまちづくり構想推進プロジェクト報告書』
(咲花きなせ堤協議会、平成25年3月)より引用

咲花温泉川床利用イメージ図
『咲花温泉かわまちづくり構想推進プロジェクト報告書』
(咲花きなせ堤協議会、平成25年3月)より引用

3.咲花温泉「碧水荘」

「碧水荘」の表玄関

咲花温泉の最奥に佇む碧水荘

 「碧水荘」は、その外観から内部まで、どこか懐かしくも新しい、情緒あふれる雰囲気が漂う宿である。近代的なコンクリート打ちっぱなしのエントランスに掛かる暖簾の藍色が新緑に映えてなんとも清々しい。

 外観は近代的な建築ながら伝統的な和風建築の趣を持つ。木々に囲まれた庭は、四季折々の自然の息吹と調和し、心が安らかに包まれる。

玄関のアプローチ

 ロビーも大変に開放的で、やわらかな光と共に眼前に広がる阿賀野川を眺めることができる。

 四季折々に表情を変える川面とせせらぎの聞こえてくる広々としたロビーは、落ち着いた色調で柔らかな光が差し込み、控えめな照明と風情ある和の家具や絵画が配置された空間には、まさに日本の美意識が息づいている。

開放的で日本の美意識が息づいているロビー

豊富な湯量

 現在使っている6号源泉は、温度が57℃であるが、湯船に注がれる際には42℃に調整されている。この源泉は約40年前に深さ19mから掘削して湧出し、湯量は315リットル/分で、各旅館には約45~42リットル/分ずつ供給され、バルブによって湯量が調整されている。

大人数で長湯(ぬる湯)を楽しめる広々とした貸切露天風呂

全ての湯船が源泉かけ流し

 碧水荘では、豊富な湯量によって全ての湯船で源泉かけ流しを楽しむことができる。(咲花温泉の他の大きな旅館では循環式の温泉システムを採用しており、露天風呂だけが源泉かけ流しなど部分的なかけ流しに留まっている。)

 この地域全体としては源泉の湯量が限られているが、足りない分を増やすための汲み上げは行っていない。大切な温泉の恵みを守り続けている。

あつ湯とぬる湯

 碧水荘の内湯では、湯船をちょうど半分に分割するような仕切り板が設置されている。最初は、お客様からぬるいと言われて仕切りを入れたそうであるが、中央で仕切ることで、熱い湯、ぬるい湯と分けることが出来て、結果として、お客さんの好みで選べるようになって良かったとのことである。貸切露天風呂は、ぬる湯で長湯を楽しめる。

弱アリカリ性の強すぎない硫黄泉で、美肌の湯として名高い
(源泉の温度や外気温により温泉の色が、 透明→エメラルドグリーン→
グリーン→乳白色と変化するユニークな特性を持っている)

効能

 碧水荘の温泉は、日本最高級の還元力の高さを誇り、含有成分も1500mg/kg以上あることから、少量を口に含むと口内炎がすぐに治ってしまうほど、効能の高さを体感できる。

 咲花温泉共同組合ホームページによれば、肌の表面の肌細胞は、深部の肌細胞を作る部分から14日間で角質に到達し、さらに14日間で角質はフケやアカとなって、はがれ落ちる。つまり、肌細胞は28日をワンサイクルとして生まれては死んでいき、それを繰り返している。一度の入浴でも十分効果はあるが、角質が完全に入れ替わる14日間、咲花温泉に入り続けると、お肌が見違えるように生まれ変わるそうだ。

 また、咲花温泉は、硫黄泉でありながら硫黄が強すぎない。刺激が強すぎないので、湯あたりの心配も軽減され、老若男女が安心して入れる「体にやさしいお湯」である。

 さらに、生活習慣病予防のお湯としても、硫黄泉は動脈硬化症、高血圧症、糖尿病などに効果があるとされている。

研究会の常宿

 このように「碧水荘」は、阿賀野川河畔の鄙びた環境の中で、穏やかな時間を過ごしながら、ゆっくりと保養するのにうってつけの温泉である。

 当研究会の新潟方面での現地検討会では、10数名でも個室がたくさん取れ、大人数で貸切露天風呂、健康に配慮した美味しい食事や地元のお酒をゆっくりと楽しめるので、ここを常宿としている。

 管理人も、新潟出張の際には必ずここに寄ることにしており、新潟方面では数少ない、日本最高級の還元力を心ゆくまで体感できるのがうれしい「お宝温泉」の一つである。

宿の将来構想

 碧水荘の森田社長にお話を伺うと、様々なアイデアをお持ちである。

 広域で観光協会が連携し、例えば佐渡会津若松の連携の中継地点として咲花温泉を盛り上げる構想や、温泉だけでなく料理も地元有機野菜や薬膳など健康に特化した宿としたり、温泉で温まった後に川床や裏手の岩盤を手掘りした洞窟で外気浴ができるようにするなど、様々な構想があふれ出てくる。

 「お客様は温泉宿に癒しを求めて来てくださる。温泉に入って健康になってもらえるのなら本望」と話してくださった。

 「禍の中にある無数の福の芽を育て、福の中にある無数の禍の芽を摘んで捨てる。そんな生き方が目標です」と、森田社長は「五泉本―五泉のひと・店・まち」(2022年8月31日、越後天然ガス株式会社発行)のなかで語っておられる。

森田克彦社長「禍の中にある無数の福の芽を育て、
福の中にある無数の禍の芽を摘んで捨てる。そんな生き方が目標です」

4.咲花温泉郷の地質(小出―新発田構造線の近傍に湧く温泉)

 阿賀野川が新潟平野に出る直前の両岸に山地が迫る狭窄部にある温泉で、平野との境にはフォッサマグナの東縁にあたる小出―新発田構造線が位置する。

 温泉周辺の地質は花崗岩であり、花崗岩と構造線が接していることから構造線と花崗岩の節理のつながりで深部からの温泉の通路になっていると考えられる。

 
 

 

温泉宿詳細情報

宿名

咲花温泉 碧水荘

住所

〒959-1615
新潟県五泉市佐取3062番地

連絡先

0250-47-2011

公式HP

https://www.hekisuisou.jp/

 

お宝温泉物語by地域ジオ資源研究会(第4話)

奥鬼怒温泉郷 加仁湯(かにゆ)

人里を遠く離れた標高1400mの奥鬼怒のリゾート

「リゾート」には、よい自然のなかで保養する、という意味があります。まず、加仁湯公式ホームページ(http://www.naf.co.jp/kaniyu/) をご覧ください。「加仁湯」の全貌に驚かれるでしょう。

霧に包まれた加仁湯の表玄関(林道斜面の点検を終えた到着時)

翌朝の晴れ渡った加仁湯と鬼怒川源流部

1.「奥鬼怒温泉郷」or「奥鬼怒四湯」

奥鬼怒温泉郷とは?

 奥鬼怒温泉郷 は、栃木県日光市川俣にある、加仁湯(かにゆ)、手白澤温泉、日光澤温泉、八丁の湯の4つの温泉(いずれも一軒宿)の総称で、「奥鬼怒四湯」とも呼ばれる。温泉郷のエリアは、女夫渕(めおとぶち)より先の鬼怒川の源流部付近にあり、鬼怒沼尾瀬への登山客の利用も多い。

 女夫淵駐車場から始まる山歩きでは、四季折々の風情豊かな景色が魅力である。春の新緑、夏の豊かな緑と鳥のさえずり、秋の紅葉、冬の雪景色に静かに包みこまれる風情。野生のシカや猿に出会うこともしばしばで、自然との距離がぐっと近づく。

 この道中、携帯電話は通じない。しかし、この“オフライン“の時間は、日常の繋がりから解放され、ただ自然を感じる時間となってむしろ心地よい。

奥鬼怒温泉郷が形成されていった昭和初期

 温泉郷が形成されていったのは昭和初期で、各宿に電気、電話が引かれたのが1986年(昭和61年)になってからであり、それまでは各宿ともランプや自家発電の宿であった。奥鬼怒スーパー林道が1988年(昭和63年)に開通するまでは交通アクセスも徒歩に限られ、容易に訪れることのできない秘湯であった。

アクセス

 いまは、日光宇都宮道路今市ICあるいは東武鬼怒川線鬼怒川温泉駅より女夫渕駐車場まで、車かバスで約1時間30分である。女夫渕駐車場からは、奥鬼怒スーパー林道だが一般車は通行禁止で、加仁湯までは宿泊者限定の送迎バスか、遊歩道経由の徒歩で1時間10分~1時間30分の道のりである。(一部「ウィキペディア 奥鬼怒温泉郷」参照)

2.「加仁湯」の起源

 江戸時代後期の文政年間(1818年~1831年)の頃から、沢蟹が無数に生息しているところに豊富な温泉が湧出していたので、ここを「蟹湯」と名付けて、村人は湯治をしていたと伝えられている。

 昭和2年(1927年)、小松峰老人(「加仁湯」初代湯守・小松長久翁の祖父)が、鹿を追って「蟹湯」にくると、鹿の足跡に白い湯花が付着しているのを見て、自ら手掘りして温泉源につきあたった。

 昭和9年(1934年)、小松峰老人と小松タケ(長久翁の母)が、この地に木造二階建てを建築したのが、宿の始まりである。

 昭和10年(1935年)、小松長久翁が湯守になるが、陸軍軍人になったりして、その後無人小屋となる。

 昭和25年(1950年)、無人小屋の間、山岳愛好家達によって留守が護られて管理利用され、囲炉裏端のゴザの下に宿泊謝礼が置かれていた。長久翁は、その素晴らしい行為に感激し、山岳愛好者から「仁」(人の道)を加えられたことから「加仁湯」と改名し、喜久代(長久翁の妻)とともに宿の再建に乗り出した。

 当時の温泉の湧出量は毎分16ℓ(源泉温度は42℃)と少なかったので、来る日も来る日もツルハシで温泉の発掘に全精力を注ぎ、ついに突然の湯けむりとともに現在の高温温泉が自然湧出した。それから37日間、自然の岩をツルハシで掘り続けて、現在の露天風呂を完成させた。その後も次から次へと温泉が湧出し、現在のような豊富な温泉に恵まれた。

 「加仁湯は、未来永劫にわたり人の道を遵守し 常に感謝と奉仕の精神を忘れることなく お客様は株主さんであるに徹し 連帯感溢れる環境づくりに専念し 繁栄を期する」と石碑に刻まれている。

注:「草加山の会:奥鬼怒の秘湯 加仁湯」より

https://soka-yamanokai.com/2022/02/11/other-31/ 

3.加仁湯の源泉

 加仁湯の源泉は、「岩の湯」「黄金の湯」「たけの湯」「奥鬼怒4号」「崖の湯」の5種類である。主な泉質は、硫黄泉-ナトリウム・塩化物・炭酸水素塩温泉(硫化水素型)で、源泉温度は約54℃、湧出量は全体で毎分300リットルと豊かである。効能は、神経痛、関節痛、婦人病、糖尿病、慢性皮膚病、慢性湿疹、肥満症、リューマチなどとされている。

 元祖の「岩の湯」は、源泉温度が約55℃、湧出量35ℓ/min(掘削自噴)、Ph6.2、溶存物質1436mgが主で、これに一部、動力揚湯の源泉を合わせている。

 宿最大の第三露天風呂の「黄金の湯」は、源泉温度45℃(動力揚湯)と55℃(掘削自噴)の混合泉で、湧出量は180ℓ/min(動力揚湯)と45ℓ/min(掘削自噴)、Ph6.7、溶存物質約1100mgである。この湯船の温度が38℃くらいのぬる湯なので、大自然に包まれた開放的な湯船で、ゆっくりと長湯を楽しめるのが醍醐味である。

 「たけの湯」は、硫黄分をほぼ含まない泉質で、メタけい酸とメタほう酸を含み、肌の敏感な方でも気兼ねなく入れて、湯あたりしにくい温泉である。

4.関東最後の秘境と呼ばれる「加仁湯」の魅力

奥鬼怒のリゾート」

 本格的に自然と触れ合う旅を望む方にとって、ここはまさに隠れ家的存在である。山小屋の原点を大切にしながらも、現代の快適さを追求した「奥鬼怒のリゾート」とも言える、唯一無二の温泉宿である。

 宿の傍らを流れる鬼怒川の自然と共に、心身ともにリラックスできる時間を過ごすことができ、日常への活力を充電してくれる。清潔感あふれる客室、落ち着いた雰囲気の共有スペース、地元の食材を活かした美味しい料理。その全てが、厳しい環境のなかにありながらも、心地よさを追求した結果生まれたものである。

秘境に居ながらの最先端の快適さ

 山間部に位置する加仁湯だが、その快適さは一切犠牲にされていないことに驚く。宿ではWi-Fiが整備されており、また携帯電話の接続も可能である。必要な情報へのアクセスや、素敵な体験をSNSで共有するための通信環境は十分整っている。

秘湯の周辺にあらわれる動物たち

乳白色の温泉の魅力―4種類の泉質と数多くの露天風呂

 加仁湯の5つの源泉は、 何れも複数の温泉成分がバランスよく含まれ、その内4つの源泉は硫化水素を含んだ「硫黄泉-ナトリウム・塩化物・炭酸水素塩温泉(硫化水素型)」である。あとの1つの源泉は、硫黄分をほぼ含まない泉質で、メタけい酸とメタほう酸を含み、肌の敏感な方でも気兼ねなく入れて、湯あたりしにくい温泉である。

  pH6.5の弱酸性で適度の遊離炭酸ガスを含み、血行を促進するため良く温まる。泉質は4種類で、温度も各源泉で違いがある。温泉の濁りかたは、気温や気圧で変わる。もちろん、どの湯船も加水、加温をしない正真正銘の源泉かけ流しである。

 10日間の湯治プログラムがあり、1日に6回、発汗するまで入る。3日目くらいに好転反応が出て、その後みるみる良くなるそうである。

 夜になると、加仁湯のもう一つの顔が現れる。それは、満天の星空の下で楽しむ露天風呂体験である。川向こうには柱状節理の壁面から絹の様に流れる滝がライトアップされ、時折シカがその水を飲む姿を目にすることもある。

弱酸性で乳白色の湯は肌に優しい

(10日間の湯治プログラムがあり、1日に6回、発汗するまで入る。

3日目くらいに好転反応が出て、その後みるみる良くなるとのこと)

 第一露天風呂は女性専用で、プライバシーを保ちながらゆったりと湯を楽しむことができる。第二・第三露天風呂と、ロマンの湯とよばれる五つの小さな露天風呂は混浴である。 

女性専用の第一露天風呂

混浴の第二露天風呂(この湯船から川向いに

柱状節理の岩壁が良く見え、そこを流れる滝が見どころ)

混浴の第三露天風呂(一番広くて開放感に溢れ、

大自然との一体感を味わえるので、女性の方にもお薦め)

「利き湯  ロマンの湯」

 利き湯(泉質の違いを体感)を味わうことのできる、珍しい五つの温泉(2人くらいが浸かれる小さな湯船)が楽しい。2009年に各源泉の成分分析を行った際、常連客から「是非それぞれの湯を入り比べたい」との声が多くあったそうで、その期待に応えるべく、硫黄の影響でパイプが腐食した旧「ロマンの湯」を改修して「利き湯  ロマンの湯」として生まれ変わったとのこと。

 一つの浴槽が一人か二人でいっぱいになるほど小さいため、貸し切り状態で湯を堪能することができるのが魅力だ。

 どの浴槽も囲いがされており、女性でも安心して楽しむことができるのが嬉しい。他にも貸し切り風呂が3つあって、家族やプライベートを楽しみたい方にお薦めである。

黄金の湯

(溶存物質が1.313g/kgで適度な炭酸ガス硫化水素を含むため、

湧出直後からコロイド硫黄成分により「濁り湯」が生じる。

また、殺菌作用も強いために皮膚病にも効果あり。)

岩の湯

(5源泉の中でもっとも溶存物質が多い源泉で、泉温が高く湧出量も
多い。炭酸水素イオンの比率は低く、食塩が主成分となっている。)

たけの湯

(加仁湯では珍しく硫黄分を含まない温泉で無色透明。

炭酸水素イオンが多く、滑らかな入浴感が得られる刺激が少ない湯。)

厳冬期の快適さを支える「水道の配管の凍結対策」と「林道の除雪」

 冬の奥鬼怒は雪に閉ざされるが、年中無休で営業していることもうれしい。ただし、雪等の天候状況により、一部の露天風呂がお休みになる場合がある。

 2022年12月14日にテレビ朝日で放映された【関東最後の秘湯】(6分52秒)に小松社長が出演し、次のようなお話しをされている。

【関東最後の秘湯】人気の理由とは…人里離れた“秘境”の魅力と苦悩 (tv-asahi.co.jp)

 水道が通っていないので、地下水を井戸で汲み上げて水道として利用している。落差で落としているので、源泉を貯めるタンクは宿から少し登ったところにある。

 冬はこの配管が凍らないようにするのが大変で、凍ったら温泉でゆっくり溶かしていくしかない。それに12時間かかることもある。配管が凍ってお湯、水がないと、冬は生きられないので死活問題である。

 真冬は雪が1m以上積もるときもある。日光市の委託を受けて林道を自分たちで除雪している。まずこれが生活の基本である。林道を除雪しないと、お客も、救急車も、おまわりさんも来られない。

 この放映では、冬限定の「雪見露天風呂」のほか、サンショウウオの天ぷら、鹿肉のタタキなどの地元ならではの食材が紹介されていた。

5.「加仁湯」の苦悩

 湯守・小松輝久社長から、夕食前の1時間以上にわたって貴重なお話しを聞かせていただいた中で、次のような深刻な問題もあるとのことであった。

源泉に悪影響を及ぼす河川環境等の変化

 5本の源泉のうち河川のなかに3本の源泉があり、そのうち1本の調子が悪く、4本で300リットル/分の豊富な湯量を確保している。約100m下に粘土層があり、その上からボーリングによりポンプアップしている。

 1本の調子が悪いのは、砂防堰堤の影響で鬼怒川の水位が3~4m下がっていることと、台風のあと大きい岩が動き、河床が掘れているのが原因ではないかとのことである。

 近くで東電の地熱発電のボーリング調査も行われているので、その影響も気になっているそうである。

後継者問題

 河川のなかにある3本の源泉は、宿の経営をやめると廃止になるので、宿の継続と代々の引き継ぎが不可欠である。常連さんからの期待も半端なく、それが小松社長にとって最大の悩みの種である。

地震の影響による林道の落石・雪崩の危険性の増大

 ⒒年前(2013年2月15日)の栃木県北部地震(震度5強)で、このあたりが被害を受け、女夫渕温泉が廃止になった。

 この地震は200年くらい経験したことのない直下型で、岩盤がしっかりしているので、大きく左右にガンガンと揺れた。

 風評被害を恐れ、あまり被害を公言しなかった。そのせいで対策が行き届かず、命綱の林道はガタガタで、いまも落石や雪崩の危険性に曝されている。

(これに関しては、研究会で独自の調査を行ったので、7.の「女夫淵・加仁湯間の林道斜面の点検結果」を参照していただきたい。)

コロナの影響、野生動物の侵入

 コロナの影響もあり、この4,5年(2018年~2022年)は、赤字ながら無理に開いている。また、猟師の減少で、鹿が大問題になっており、イノシシも川俣湖まで上がってきている。

6.「加仁湯」の地質

 加仁湯の周辺の地質は新第三紀流紋岩火砕流に広く覆われる地域であり、柱状節理の発達する硬質な岩盤と砂礫層などの堆積層を含む火砕岩とが入組んで分布する(写真)。この大量の流紋岩を供給した火道の位置は不明であるが複数あったと考えられる。

 加仁湯を含めて八丁の湯、日光澤温泉が鬼怒川源流のリニアメント上に位置するので、地下深部につながる断層や割れ目が想定され、これらを通って温泉が湧くと思われる。

加仁湯上流の日光澤温泉付近の露頭

7.女夫淵・加仁湯間の林道斜面の点検結果

 国土の基盤整備を支える専門家集団としての当研究会の強みを活かし、奥鬼怒温泉郷の4湯(加仁湯、八丁の湯、日光澤温泉、手白澤温泉)の命綱とも言える「奥鬼怒スーパー林道」の斜面の点検を実施し、以下のような結果をとりまとめた。

 今後の林道の安全性の向上のための調査と対策立案の参考になれば幸いである。

加仁湯周辺のシームレス地質図

加仁湯周辺の地すべり地形判読図

 

温泉宿詳細情報

宿名

奥鬼怒温泉 加仁湯

住所

〒321-2717 栃木県日光市川俣871

連絡先

0288-96-0311

公式HP

http://www.naf.co.jp/kaniyu/

 

 

お宝温泉物語by地域ジオ資源研究会(第3話)

ランプの宿「高峰温泉

神業の領域に達した鉄人が守る標高2,000mの雲上の楽園

浅間山麓の高峰マウンテンパークスキー場内にある
標高2000mの雲上の温泉
(冬は宿からスキー場の駐車場まで雪上車での送迎がある)

はじめに

 ランプの宿「高峰温泉」は、信州・上信越高原国立公園内にある標高2000mの雲上の温泉である。この浅間山麓は大自然の宝庫で、四季折々の恵みと旅情に満ちている。真夏でも25℃を越えることのない別天地で、大自然や小動物の姿を楽しめる。

 宿が位置しているのは、高峰マウンテンパークスキー場のゲレンデ内である。山の木々が霧氷や樹氷に変わる冬には、白銀の世界と眺望を楽しみながらのスノーシューやスキーを、初心者や中高年の方でも安心して楽しめるコースが宿を中心に整えられている。

 1994年(平成6年)に改築された館内は、山小屋風の温かい雰囲気とランプの光でとても居心地の良い空間となっている。スタッフも皆明るく人柄の良さが伝わってくる。

 今日も宿は、極上の温泉と非日常の景色を楽しみに訪れている沢山の宿泊客や、山歩きの疲れを癒す日帰り温泉客でにぎわっている。 

 雲上の季節の移ろいのなかで、4代目宿主の後藤英男社長の信念と創意工夫と日々の努力の積み重ねの作品と言える「奇跡の湯」に包まれる至福のひとときを、是非体験していただきたい。

1.「高峰温泉」の歴史

高峰温泉」の起源

 ランプの宿「高峰温泉」の起源は、現在の宿主の曾祖父の時代にさかのぼる。

 今から100年以上前の明治初期、深沢川下流から約12キロ川沿いを登った山道に、地元農家が家畜のえさの牧草を刈りに来たその帰り、岩から涌き出る温泉を見つけた。そのお湯を引き入れた簡単な野天風呂が、山奥の温泉としての始まりと伝えられている。

 1902年(明治35年):初代後藤音吉は、源泉近くに宿を建てるための土台石を築いたが、宿を造る目前、大水と土砂崩れで源泉が埋没してしまい、やむなく山を後にした。

 1954年(昭和29年):先代の意志を継ぎ、2代目後藤一がボーリングを自ら手掛ける温泉開発に入り、1956年(昭和31年)10月1日に念願の旅館開業に至る。この一軒宿は、いまの宿から800m(標高で220m)ほど下った源泉近くの谷間にあって、多くの登山客に愛された。

昭和年代の宿の外観

祖父(2代目)と後藤社長(4代目)の幼少期・・・昭和40年前後

火災で全焼し、標高2,000mの高原に移転する大英断を下す

 しかし、1978年(昭和53年)11月10日の火事で全焼し、3代目の後藤克巳が火災を機に、標高2,000mの高原に移転する大英断を下した。当時、4代目の後藤英男社長は17歳であった。

 移転時には、国立公園に指定されていたので、規制が非常に厳しかった。資金的にも、銀行からの融資を得るのにハードルが高かったが、当時、経営不振であった高峰スキー場の立て直しにも役立つことや、銀行のご担当の強力な後押しやお客様からの暖かいお手紙などの力添えもあり、苦節5年をかけて後藤社長が22歳になった1983年(昭和58年)に、ここへの移転が叶った。

2.露天風呂の完成と数々の創意工夫

2階建てに改装し、露天風呂を完成

 その後、良質な温泉やサービスが話題となり、リピーターも増え続け、高い人気の宿としてその名を馳せた。当時、山の雑誌に記事を多く書いておられた野口冬彦さんなどにもPRしていただき、10年で借金を返済し、社長が33歳になった1994年(平成6年)に、いまの2階建てに改装した。

 さらに10年を経た2004年(平成16年)には、露天風呂を完成させ、2006年(平成18年)には、「冬でも入れる」露天風呂の構造を独自に工夫して完成させた。

 これは、電気制御では雷にやられてしまうので、電気を使わない浴槽の温度管理システムを採用し、アルコールの膨張をバネに伝える弁の開閉方式を社長自ら考案した。

四季折々の美しい景色と眺望が楽しめる

まさに雲上の楽園(絶景を独り占めできる)

浴槽ごとに変えているコンセプトと創意工夫

 湯温や水深を少しづつ変えることで、浴槽ごとにコンセプトを変えている。

 男湯よりも女湯の方が、0.5℃ほど高めにしている。また、露天風呂の水浸を90cmとることで、足からの水圧ですぐに温まるように工夫している。 

 さらに、温泉の廃熱も床暖房として利用している。

やや白濁したお湯

開放的な湯船

34℃の源泉の浴槽(左)と41℃の加熱浴槽(右)
(交互入浴により血流が上がり、肩こり、腰痛、膝の痛み、筋肉痛、
自律神経が改善する。もちろん、源泉は飲用できる。)

メンテナンス上の創意工夫

 ポンプも温泉成分で腐食が非常に速い速度で進んでしまうので、特殊コーティングを施したバネや器具を使用している(それでも3か月ごとのメンテナンスは必須である)。

 ポンプアップした源泉は、一旦水槽でメタンを抜き、次の水槽で硫化水素を20ppmから10ppmに下げる。館内の脱衣場などでの硫化水素抜きには、活性炭を利用した簡易な装置を考案して使っている。(すべてに創意工夫の精神が溢れている。)

館内の脱衣場などでの硫化水素抜きには、

後藤社長自ら考案した活性炭を利用した装置を使っている。

3.源泉の特徴と新しい4号井の掘削への挑戦

いま使っている源泉(3号井)の特徴

 かつての1号井(32℃)は赤い湯で現在使っていない。2号井はすでに廃止している。

 いま使っている源泉(3号井)は約30年前に掘り当てたもので、湯量は50~60リットル/分、温度は34℃(口元で36℃)で、標高1730mの源泉から標高1950mの宿までポンプアップしている。

 これだけの標高差でポンプアップするためには一般的なパイプでは難しく、高圧に耐える特殊パイプ(ポリエチレン、鉄、断熱材の3層構造)を使っている。このパイプは、重さが10kg/mもあり、これを身内だけの手掘りで深さ50cmに配管埋設している。

 3号井は2層の温泉源があり、上層は炭酸カルシウム泉が、また下層からは硫黄泉がでている。このふたつが程よく混じりあっているのが特徴である。

新しい源泉(4号井)のボーリングへの挑戦

 明治の発見当時に土石流で埋没してしまった源泉からは真っ白なお湯が出ていたという。地下深いところの亀裂から湧き出てきていたようだ。これを再度楽しんでもらえるようにとの思いから、今、後藤英男社長は時間をみつけてはご自身で新しい井戸(4号井)を掘っているというから驚きである。 

 現在、深さ800mの4号井(標高1780m)を自らボーリングしており、2023年(令和5年)1月現在、4年目で深さ300mのところまで掘り進んでいる。ロータリー方式でサンプリングもして、信州大学の教授へ火山のなりたち調べるための研究試料として提供している。教授と一緒に、一帯の現地踏査も行っているそうで、地質や地盤、水文学に関する知識も自ずと身につき、専門家も顔負けである。

 この4号井のボーリング作業の困難さと「凄さ」は筆舌に尽くし難く、18mの高さのやぐらを自分で組み立てて掘っているが、トラブル続きである。刃先のダイヤを軟らかい金属に代えるたり、ビットは径が大きいので1個50万円もする。パイプ1本3mが重量55kgもある。

 そして、極めて難しい岩質を対象とした高度なボーリングのオペレーション技術が求められ、プロ顔負けの技術を発揮している。父親の掘っている姿から、見様見真似で覚え、経験しながら技術を磨いてきたそうで、これから4~5年かけて源泉を掘り当てたいという。(このお話しには、研究会のメンバー一同、本当に驚き、感動した。)

4.将来構想

 この4号泉の完成のあかつきには、温泉の館内利用を構想しており、廃熱による冬の野菜づくりや水槽での魚の養殖、魚のフンを野菜つくりに回す「循環水槽」という持続可能な温泉宿構想を温めている。

 後藤社長の創意工夫とDIYの精神、気が遠くなるような日々の作業との向き合い方からは、まさに人知・人力の限界を超えた、神業の領域に近いものを感じさせられる。

 お宝温泉は、こうした長い年月をかけた温泉側の想い(意志)と創意工夫、そして日々の努力の積み重ねによって守られている。

後藤英男社長の情熱は尽きることがない

5.高峰神社の水神様とケヤキの原木の龍神

 1902年(明治35年)、初代宿主である曾祖父が白濁の源泉が沸き出ていた付近に宿を作るために床石を据え付けていた際に土石流が発生し、全てながされてしまったとき、住民らは山の神様を鎮めるために翌年に水神様がまつられた。それが今の高峰神社である。

 時は流れ、2022年(令和4年)。この年は後藤社長が4号井の井戸掘りをすると小さな事故やミスが立て続けに発生し、何もかもが上手くいかない年であった。

 そんな時、知り合いの大工さんが変わった形のケヤキの原木があると持ってきた。曾祖父が育った実家に埋まっていたもので、テーブルにでもしたら良いのではないかとのことである。その推定300年以上の樹齢を持つケヤキの原木は、根からの高さが2m足らずだが、年輪が龍のように姿を変えた世にも稀な原木であり、後藤社長にはそれが龍神様のようにみえた。

 それを置物にしようと思い、ケヤキの皮を剥ぐと、晴れていた空から、にわかに雨が降り、そして雷鳴が聞こえたという。後藤社長には同じ体験をした記憶がよみがえった。それは高峰神社のお社を奉納した時にも同じことが起こったのである。

 その龍に似たケヤキを宿先の広場に祀ったら、これまでトラブル続きだったことが、にわかに良い方向に転じたそうである。(注:ケヤキの原木の写真は追って掲載します。)

 ちょうど2022年は明治35年(1902年)から120年目の節目の年。初代が土台石を流されて苦労していた当時からの巡り年である。さらに、後藤社長の生まれた年が初代の源泉の発見からほぼ60年目、そしてそれから60年目のケヤキの原木との不思議な巡り合い。後藤社長は、「私が苦労している姿を先代が見るに見かねて降りてきてくれたのかもしれないですね」と語っている。(神仏やご先祖様を味方につける生き方を実践しておられる。)

 120年の歴史の中で、ご先祖様の遺伝子を受け継ぎ、後藤社長の代になって宿はたくましく進化し続けている。

6.高峰温泉をとりまく地形・地質(火山体を侵食する谷間に湧く温泉)

 温泉宿は浅間山の肩とも言える標高1960mの尾根上に位置し、源泉の3号井(深度800m)はその直下の谷底の標高1730mにあって、標高差230ⅿの急斜面に配管パイプを埋設して揚湯している。

 源泉付近の地質は更新世の古い火山噴出物(地質図A)で、東の浅間山にかけて更新世後期の火山噴出物(地質図B)、現世の浅間山の火山噴出物(地質図C)へと火山活動が移動している。これらの地質は同質の玄武岩安山岩安山岩で、溶岩や火砕岩である。浅間山のような成層火山で温泉を見つけることは困難であるが、侵食が進んだ比較的古い山体であり、深い谷間(陰影図参照)で湯兆があって源泉井戸の開発につながった。

 ここでは新たに4号井の掘削が進んでいて深度300mまで達している。その柱状図(図ー3)によれば、古い火山体の溶岩や火砕岩の硬軟入り混じった掘削と想定され、掘削は困難な中で進められている。源泉井戸の深度は800ⅿであるので掘進中の地層の下位にある基盤岩の割れ目などを通じて湧く温泉源に達していると考えられる。

 
 

高峰温泉をとりまく地形・地質

7.高峰温泉4号井の掘削について―研究会の地質専門家の見解

 4号井の掘削位置は、陰影図(図-1参照)に示すように、浅間山山体火口とこれに連なる尾根から放射状に分布する渓流に比較して、侵食が盛んで谷が大きく深い渓流にある。この谷の形態から、この付近には侵食されやすい割れ目の密な岩盤からなる地質が分布することを想定できる。こういった地質は、水源や温泉開発には向いているが、割れ目が多いため掘削には困難な条件になる。
 また、掘削対象となる地質は、シームレス地質図(図-2参照)によれば、浅間火山の前身の火山活動による安山岩玄武岩質の溶岩や火砕岩といった古期の火山体であり、硬い溶岩と割れ目が密で硬軟の岩塊が入り混じった火砕岩の分布が予想される。やはり、ボーリング掘削は一般に難しい地質とされる。

 このような地形・地質条件から、ボーリング掘削には高度な技術が要求される地点になる。高峰温泉では、先代が自力で3号井を掘削されたとはいえ、後藤社長は極めて困難な4号井の掘削に自ら着手した。

 仮設の鋼製櫓は高さ18ⅿで、ボーリングマシンや櫓などの掘削資材は分解して、標高差200ⅿの山道を下る人力運搬を行い、組み立ても自前で実施した。2019年の夏から開始した掘削は、2022年の積雪期前に深度300ⅿまで到達しているが、これは鑿井業として考えればまったく成り立たない状況である。

 掘進状況は、削孔記録の概要をまとめた柱状図(図-3)に示す通りである。

 掘削は、深度15.5ⅿまで大口径の鋼管(160~200㎜)で、口元を確保した上で深部に向けた掘削に進んでいる。岩盤掘削とはいえ、火砕岩が主体なようで全体に割れ目が密で硬軟変化が著しく、ボーリング孔壁の崩壊・掘削泥水の漏水・地質からの孔内への湧水が発生しやすい状況である。孔壁崩壊や漏水は削孔の支障になるし、温泉以外の湧水は止水する必要があり、削孔途上で何回ものセメンテーションを繰り返し行っている。

 セメンテーションとは、割れ目にセメントミルクを注入して孔壁を固めるため、掘削した区間の一部(数m~20m)をセメントミルクで埋め戻すものである。ある時は20mのセメント硬化区間を掘削してから1~2m掘削を進め、再度セメンテーションを行わざるをえなかったという状況もあったそうだ。このほか、孔壁の崩壊でコアチューブが上がらなくなる事故やコアビットの高価な刃先が欠けてしまうことなどがあった。

 こうしたいくつもの破砕帯や漏水・湧水帯を切り抜けて掘削を進めることは、掘削技術に加えて工夫や忍耐の要る作業である。後藤社長の技術者と職人的姿に感銘を受けるとともに、完成に16年を要した東海道線丹那トンネルの工事が思い出された。

図-1

図-2

図-3

温泉宿詳細情報

宿名

高峰温泉

住所

〒384-0041長野県小諸市高峰高原

連絡先

0267-25-2000

公式HP

https://www.takamine.co.jp/